「談志を知らない世代のために」太田 光×立川志らく『師匠』対談_5

立川談志という落語家が大嫌いだった

――そもそも、おふたりが落語家、コンビ芸人としてのキャリアをスタートする以前、立川談志という存在に対してはどんな印象を持たれていたんですか。

太田 ウチの親父が一時期、落語家を目指してたぐらいなんで、実家に(五代目古今亭)志ん生や(八代目桂)文楽のテープがいっぱいあって、自分もよく聴いてたんですよ。だからもともと落語ってものが好きだし、憧れもあった。大昔、自分の単独ライブで2回ぐらい、落語をやったこともあるんで。
志らく そうなんですか?
太田 えぇ、ひとつが『元犬』で、あとは『初天神』だったかな。まあお遊びなんで、めちゃくちゃな出来でしたけど。で、立川談志っていう存在に関していうとね、とにかくウチの親父が大嫌いだったんですよ(笑)。志ん生なんかと比べても、生意気なばっかりでちっとも面白くないって。けど俺自身は子供の頃から「危ないオヤジだなぁ」っていう印象は持ってたものの、でもやっぱり(ビート)たけしさんが尊敬する存在ってことで気にはなっちゃうし、テレビやなんかでの過激な言動も含めて魅力的な人だなぁと思ってましたよね。
志らく 正直私もね、大学生の頃まで立川談志という落語家は好きじゃなかった。というより、大嫌いだったんです。「花王名人劇場」でちょっと落語を聴いたことがあるくらいで、イメージとしては元国会議員のテレビタレント、口が悪い、生意気。下町育ちで落語好きの父親から「談志なんか聴いたら悪影響を受けるからやめとけ」と言われてたのもあって、私にとって談志の落語は生で聴く対象じゃなかったんです。
太田 われわれの親世代は、異分子的な談志の存在を認めない空気があったから。
志らく ましてや(十代目金原亭(きんげんてい))馬生(ばしょう)師匠、(五代目柳家)小さん師匠、(三代目古今亭)志ん朝師匠が現役バリバリで、(十代目柳家)小三治師匠ですらまだ青いって言われてた時分だから。そういう中で私の好みとしては、とくに渋いところでもって馬生師匠。もし弟子入りするなら馬生師匠以外ないと決めてました。

――志らく師匠はエッセイの中で、馬生師匠のことを「水墨画のようなシブい落語をやる名人」と評されていますね。

太田 だけど馬生師匠、早くに亡くなっちゃいましたよねぇ。
志らく 私が大学一年のときでした。居ても立っても居られなくて葬儀に行って、その帰りにふらっと池袋演芸場に寄ったんです。すると、よりによってトリが談志(笑)。「なんだよ、談志じゃしょうがねぇじゃねぇか!」って。でもまあ、とりあえず聴くことにして。すると談志の弟子がぞろぞろ出てくるわけ。のちに私の兄弟子になる方たちですが、みんなインチキな談志のマネで口ひん曲げて(笑)。勘弁してよって思ってたら、ようやく談志が出てきたんだけど、その日はどこか様子がおかしい。馬生師匠の思い出をぶつぶつ話してばかりでさっぱり落語をやる気配がなくて、そのうち痺れを切らした客が「早く落語やれ!」とヤジった。するとその客に向かって談志がこう言ったんです、「いや、すまねえ。今日は落語やる気分じゃねぇんだ。銭返すから帰ってくれ」って。結局、その日は落語をしなかった。
太田 それもすごい話ですよね。
志らく けど、その様子がなんだかものすごく格好よくて、それから談志の出る寄席に通うようになったんです。すると、枕なんざ振らずに『居残り佐平次』や『らくだ』、『鼠穴(ねずみあな)』なんかの大ネタをいきなりやり出したりするもんだから、「うわっ、すげぇ!」と。聴けば聴くほど、過去の名人たちの匂いと現代的な感覚の両方がある。「こんな落語家いたのか!」って、もう痺れちゃって。

――その後、志らく師匠は日芸・落語研究会の先輩である高田文夫さんに腕前を認められ、それがやがて立川談志の下へ弟子入りする足掛かりになるわけですが、一方、太田さんと談志師匠の交流はどんな経緯で始まったんでしょうか。

太田 それはやっぱ俺も高田先生の存在が大きくて。先生の推薦で銀座ソミドホールの立川談志独演会に呼んでもらったのが最初の出会いですね。それこそ俺らが「ボキャブラ天国」でまたテレビに出れるようになった頃かな、高田先生から「落語界では談志と(三代目古今亭)志ん朝を押さえておけば大丈夫だから」って耳打ちされて(笑)。しかも出番が談志師匠のトリネタの前。そこで漫才やったら思いのほか客にいいウケ方をしたんです。ほんと、ラッキーでした。その日の楽屋ですよ、談志師匠に「太田、このチビ(田中裕二)は絶対切るなよ」って言われたのも。あのとき、志らく師匠もその場にいらっしゃいました?
志らく もちろん。なにせうちの師匠に引っかかる芸人ですからね、当然気になるじゃないですか。もともと毒っ気のある芸人は好きだけど、誰でも引っかかるわけじゃないんで。

――といいますと?

志らく だってほら、浅草キッドは実際引っかかってないわけで。同じ毒でも、談志の好きな毒とそうじゃない毒がある。あと、師匠と太田さんの好みが似てるってのもあったと思う。太田さん、チャップリンも手塚治虫もお好きでしょう?
太田 好きですね。
志らく ヒューマニズムの王道を愛するっていうところで、シンパシーがあったんでしょうね。

――太田さんはお弟子さんたちとは別のポジションで談志師匠と時間を共にする機会も多かったと思うんですが、太田さんの目にはどう映っていましたか。

太田 いやぁ、打ち上げなんかでもよく隣に座らされたりしたんだけど、やっぱ独特の緊張感があってね、おいそれと話すわけにいかないじゃないですか。それこそイリュージョン落語の話なんかを延々されて、「どういう意味なんだ?」って疑問に思ったりもするんだけど、ヘンに突っ込んで「それは違う」って言われるのも怖いでしょ(笑)。かと思えば、興が乗ってくると「志ん生ならこうやる」とか「文楽ならこうだ」とか、錚々(そうそう)たる名人たちの語りを目の前でいちいち実演して見せてくれるんですよ。それがもうねぇ、ほんと惚れ惚れするほどで。
志らく 師匠の名人語りのダイジェスト実演、なんだったら高座でやるよりうまかったですからね(笑)。
太田 それこそ談志を全身で浴びてるような感覚っていうかね。こんな幸福なことないよなって時間の連続でした。ただ、師匠を送り出したあと、家に帰ると毎回どっと疲れが出ましたけどね(笑)。

「談志を知らない世代のために」太田 光×立川志らく『師匠』対談_6

談志のジレンマと古典落語への情熱

太田 あと、やっぱり談志師匠っていうと、いくつもジレンマを抱えてる人だなっていう印象はありましたよね。

――ジレンマですか。

太田 この前、ラジオの談志特番に呼ばれたんですよ。そこで最近の寄席に集まる客の中には「立川談志って誰?」っていう世代も増えてるんだけどそれについてどう思うか、みたいなことを聞かれて。それはまあ時の流れだから仕方ないなと思いながら、ふとね、その冷酷さというか、談志を知らない客が寄席を訪れる未来を一番に予見して危機感を持っていたのは、ほかでもない、生前の談志師匠自身だったんじゃないかと思って。
志らく なるほどね。
太田 例えば、談志師匠はお弟子さんだけじゃなくて、外様の俺なんかにも古川ロッパだとか、ビリー・ワイルダーの面白さってものを伝えようと、いつも延々ず~っと説明してくれるんですよ。あるときは、「ウチに東武蔵(あずまむさし)のテープがあるから、今度聴きに来な」とかね。
志らく 東武蔵は明治から昭和初期にかけての浪曲師なんですが、急にそんな名前出されても普通わかんないでしょ。
太田 当然、見たことも聞いたこともないから「よく知らないです」って答えるしかない。すると談志師匠、露骨にガッカリした表情してね(笑)。おそらくそういう局面って無数にあったはず。そこで「おまえ、そんなことも知らねぇでよく芸人になったな」っていう憤りと、一方で「まあこれも時の流れなんだから仕方ない」という諦念、その狭間でジレンマを感じ続けてたんじゃないかなぁ。芸事に関して談志師匠の頭の中にあるものがあまりに豊富すぎて、常人はなかなかついてけない。言うなれば、談志師匠ほどマニアックな人はいないですよ。だけど本質がマニアックだから、逆に万人受けするようなメジャー性は苦手というか、持ち得ない人だったじゃないですか。そこにもジレンマを抱えて葛藤してたんじゃないかと思うんですよね。
志らく それはあるでしょうね。
太田 談志師匠の根本には、やっぱり古典落語ってものへの尋常じゃない思いがあったわけじゃないですか。
志らく 命懸けてましたから、そこに。
太田 だからね、「笑点」を企画して初代司会までやったのも─まあ後にあの番組は自ら否定するんだけど─落語人気がどんどん落ちてくなかで、少年時代の自分が愛した古典落語の凄さをどうすれば改めて一般層に伝えられるか、そこを突き詰めた故だと思うんです。極論、談志師匠からしてみりゃ、古典落語がゴールデンタイムに視聴率20%取るような状況じゃないのはおかしい、許せないって話だったと思うんです。自分が命を捧げる古典落語をお茶の間のど真ん中に復活させるにはどうすりゃいいのか、そことずっと格闘してたんですよ。

――対世間のジレンマも抱えていたと。

志らく 夜の番組で実験的な演出で落語やったりもしてましたね。ネタ1本、細かく細かくカットを割って、全編カメラ目線にしたら迫力が伝わるんじゃないかって。けどオンエア観たら、もう暑苦しくてしょうがない。だって枕からサゲまで、どこまでもカメラ目線の談志、談志、談志。それが延々続く。さすがに視聴者もチャンネル変えますよ(笑)。

――太田さんも映像作品『笑う超人 立川談志×太田光』で、談志師匠の演じる『黄金餅』と『らくだ』を実験的なカメラワークで撮影されていましたよね。

太田 だから談志師匠の葛藤はすごく伝わってきたし、それこそ師匠が枕なしで大ネタに入る時のゾクゾクっとするあの感じを、もしゴールデンで一回でも見せることができたら、日本中が「参りました!」って言うはずなのになぁっていう歯がゆさは僕自身も持ってたんで。

「談志を知らない世代のために」太田 光×立川志らく『師匠』対談_7

「師弟関係」の面白さと歪(いびつ)さ

太田 晩年はまた別のジレンマというか、苦しみを抱えてらっしゃいましたね。喉頭がんで手術が必要なのに、でも噺家にとっての命である声帯を失っちゃうから手術は絶対しないって。
志らく それで声がちゃんと出ないまま高座を務めるんだから、弟子としても居たたまれない。普通のマイクじゃ声が拾えないってことで、胸のあたりに特別なマイクをつけての高座で。ハアハア漏れる息まで拾っちゃうし、まるで一筆書きのような落語で、テンポも何もなくて。
太田 そういや、たまたまその頃に志らく師匠と会う機会があって、今でもはっきり覚えてるけど、「もし声が出なくなっても、どんな姿であれ談志師匠が高座に上がるだけで客は面白いから、手術してもいいんじゃないですか?」って聞いたんです。すると志らく師匠、悲痛な表情で「もう許してやってほしい。これだけ全部さらけ出してるのに、これ以上何を望むんです?」とおっしゃって。それを聞いて、俺は談志がどれほど苦しもうがその姿をギリギリまで見届けたいっていう、あくまで客目線で談志を見てたんだと痛感した。一方の志らくさんはまるで肉親の目線で談志師匠を見てる。そこに師弟関係っていうものの凄さをいやでも感じましたよね。

――太田さんはそういった特別な絆で結ばれた師弟関係というものに憧れを抱いたりすることはなかったんですか。

太田 いや、自分にはまず無理ですよ。そもそも上下関係ってのがもう得意じゃないっていうか。もちろん、たけし軍団もそうですが、敬愛する人に近づきたい気持ちはわかるんだけど、俺の場合、どっちかっつうとそういう仰ぎ見るような存在からは遠ざかりたいから(笑)。ましてやそんな人の下で厳しい修業なんて、とてもじゃないけど務まんないです。

――談志師匠は「修業とは不条理に耐えることだ」とおっしゃっていますね。

太田 というか、談志師匠って弟子の育成、ちゃんとやってたんですか?
志らく いや、何もしてないです(笑)。
太田 そうでしょう? 全然育成してるように見えなかったから(笑)。
志らく 落語は三席教わったけど、あとは何も。これを見ろとか、あれを学べとか絶対言わないんで。好き勝手やれっていうだけ。だからたぶん、談志に弟子の育成能力はなかったはずなんです。
太田 でも、すごいですよね。それで立川流から志の輔、志らく、談春っていう売れっ子が3人も出るんだから。
志らく それで言うと、談志が弟子を引き連れて落語協会を脱退、寄席を飛び出したのが結果的によかった。前座や二つ目が寄席で経験積めないとなったときに、「いいか、おまえら勝手にやれ!」「わかりました、勝手にやります!」って自主的にやれる人間だけが実力をつけて売れ、やらない人間はいつまで経っても売れないっていう、それだけの話なんで。
太田 なるほどね。
志らく 私はとにかく談志と価値観を共有したいという思いが強かった。それで師匠お気に入りの懐メロ、三橋美智也や藤山一郎あたりを片っ端から聴いて覚えるわけです。そこからどんどん興味が広がって、戦前の音丸という歌手のCD全集が出たと知るやすぐに入手して師匠に渡して、「そうか、志らく。おまえ音丸なんてのも聴いてんのか」と言ってもらえるのが嬉しかったりね。だけど、それだけ。師匠のお気に入りを勉強したからって、何かご褒美に特別なことを教えてくれるわけじゃないんで。
太田 弟子としては、師匠の好きなものなら絶対面白いはずだって話ですよね。
志らく えぇ。ひいてはそれが必ず芸の役にも立つはずだと、勝手に思ってただけです。きっと談志は、落語家なんてのは人から教わってなるもんじゃない。やる気があって、才能を信じて自ずから精進する人間でないと到底務まる稼業じゃないって考えてたんでしょうね。