「気に入らないのはあんたのネクタイ」
6月6日にEMIスタジオで行われたデモ・テープ録りで、ラテンのスタンダード・ソングだった『ベサメ・ムーチョ』と、オリジナル曲の『ラヴ・ミー・ドゥ』『P.S.アイ・ラヴ・ユー』『アスク・ミー・ホワイ』の計4曲がレコーディングされた。
マーティンはスタジオのコントロール・ルームでバンドのメンバーたちに録音した音を聴かせて、スタジオの仕組みやレコーディングのノウハウを丁寧に説明した。
しかし誰もが黙っていて何の反応も示さないので、「何か気に入らないことでもあるのかい?」とメンバーたちに訊いた。
その時、一番若いジョージ・ハリスンが、「気に入らないのはあんたのネクタイ」と答えたという。そこには小生意気ながらも、どこか憎めないユーモアがにじみ出ていて大笑いとなり、お互いに打ち解けていった。
その後、リヴァプールに足を運んでキャバーン・クラブのライヴを観たマーティンは、彼らの将来性を確信することになった。
それからはプロデューサーとして、メンバーたちの音楽に潜んでいた独創性を引き出し、多様な音楽的アプローチを具体的に教えることで、様々なオリジナル曲が生まれる手助けをしていく。
特にソングライターとしてのジョン・レノンやポール・マッカートニーの可能性に気づいて、ビートルズを輝かしい成功へと導いた功績は大きい。
そんなマーティンがデビュー・シングルを作るに際して、一つだけ危惧を抱いていたのはドラムのピート・ベストの技量だった。
そのことをきっかけにしてブライアンとビートルズの3人は、ピートを外して新しいドラマーを迎え入れる。リヴァプールでは名の通ったドラマー、左利きのリンゴ・スターだった。
しかし、9月4日に行われたデビューシングルのレコーディングで、マーティンはリンゴのドラムに対しても首を傾げることになった。