最後に主人公を送り出す
佐藤 悪役が書けないって言われて、どうしたらいいだろうって悩んでます。書こうと思っても、誰でもそうなるに至った理由があるって思っちゃうんです。どんなに悪い人でも幼いころがあったはず、とか考えてしまう。今回の『花散るまえに』でも、石田三成を悪役にしてくださいって言われたんですけど、三成なりのこうなる理由みたいなものを書いちゃっていますね。
今村 わかるわかる。僕もどっちかっていうと佐藤さん寄り。でも悪を書くべきやとは思うねん。まだ完結してないけど、三部作で書いている『イクサガミ』では根っからの悪人を書こうとしたんよ。もちろんそいつにも悪になった理由みたいのがあんねん。けど、そこは書かんかったらいいねん。僕は表に出してない人物設定がいっぱいあって、それを書かないことで、悪を描こうとしとる。
『イクサガミ』は明治十一年が舞台で、武芸に秀でた二百九十二人が殺し合う話やねんけど、名前すら出てこおへん二百九十二人の人生がある。全員にそうなった理由があんねんけど書かへん。ただ、考えておくと、何かあるやろなって深みだけは残るんよ。その深みで十分って割り切れる勇気を、最近やっと僕も持てるようになってきた。何も考えずにモブを書くと「こいつキャラ使い捨ててるわ」って読者に気づかれるんやけど、考えた上で書かへんのはちゃんと読者に伝わるんやって。
佐藤 今村さんは『八本目の槍』で三成を書いてるから、『花散るまえに』の三成をどう思ったのか気になっていたんですけど。
今村 僕は『八本目の槍』で三成をめっちゃいいやつに書いてるやん。そういう意味で言うと、『花散るまえに』の三成には、「何をっ」って、三成派の弁護人として出ていくところやけど、小説としては佐藤さんが書いた忠興から見た三成でいいと思うねん。
今の話で言うと、自分が誰の弁護人なのかを意識したほうがいいかもしれん。弁護士は相手方に有利な証拠を持っていても、出さへん時もあるやん。そういう感覚かな。「私は誰それの小説を書いてるんだ」「これこれをテーマにした小説を書いてるんだ」と思えば、全員の味方をしなくても成り立つ。僕いま、めっちゃ小説を理解してるやつみたいなしゃべり方やな(笑)。
佐藤 勉強になります。
今村 僕もまだまだ勉強中ですよ。キャラクターって不思議で、自分がつくってるのに理解が追いつかん場合がある。作者とキャラクターが乖離(かいり)していくと、小説として暴走気味になるから、自分がキャラクターをしっかり理解してあげなあかんなっていう感覚がある。いい小説になりそうな時ほどキャラクターが勝手に走り始めるから、作者はしっかり横について走り続けてあげな、変な方向に行ってしまうような気がするね。
『塞王の楯』の時にそういう危険性を感じた。僕は常に主人公の匡介の隣にいたつもりだけど。ただ、一番最後に必要なのは主人公をリリースしてあげること。
佐藤 リリース?
今村 最後の十ページで、主人公の背中を見送る。旅立たせてあげなあかんと思うのよ。読者のもとに送り出すイメージ。時には離されそうになって必死で追いつき、並走するんだけど、最後はいつも主人公の背中を見てる。
ドキュメンタリー番組でカメラを持って主人公を追いかけている感じ。『情熱大陸』のテーマソングが鳴り始めて「今日から、また匡介は、石を積むのである」と、去っていくシーンで終わる、行き先は読者のところ。
佐藤 わかるって言うとおこがましいんですけど、私もラストシーンを書き終わったあとは、登場人物たちに「いってらっしゃい」という気分になりますね。読者のもとに「行っておいで」って送り出すみたいな。
今村 寂しいね。一つの物語が終わると。
佐藤 そうなんです。すごく寂しくなります。
今村 そういう意味ではシリーズものはいいで。見送っても、また帰ってきよるから。
『ぼろ鳶』(「羽州ぼろ鳶組」シリーズ)は「お邪魔しました」って感じ。必ず家族団らんのシーンで終わるから、大家族もののドキュメンタリーみたいなイメージ。次のシーズンが始まったら「また、お邪魔します」って行けるから。
佐藤 シリーズものも書いてみたいですね。今日、今村さんからお話をうかがって、これからも書いていく勇気がもてました。
今村 がんばってや。小説が好きなんやったら、書き続けて、生き残り続けるしかないんやから。
「小説すばる」2023年9月号転載