映画を取り巻くメディア環境も、雑誌からネットに移行したことで様変わりしつつある。エンパイア誌のように30年以上SF作品やスーパーヒーロー作品を中心に取り上げてきたメディアも健在ではあるが、新興の映画メディアの多くがスーパーヒーロー映画に関するリーク情報やイースターエッグ的考察を売りにするようになり、スーパーヒーロー映画の記事をメインコンテンツにするようになった、もともとはコミックやゲームのファンダムを由来とするメディアも近年目立っている。自分もここ10数年、「ジャニーズやLDHのタレントを表紙にしないと雑誌が売れない」という日本のメディア環境の中でたくさんの仕事をしてきたが、メディアがファンダムに飲み込まれたという意味では、世界中で同じことが起こっているように見える(ちなみに2020年代に入ってからビッグネームの監督や役者が最も有意義な発言をしている場は、インディペンデント系のポッドキャストだったりする)。
『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』の上映時間は、過去の『スパイダーマン』作品では最長となる2時間28分。このところ、もともと長くなりがちだったアッセンブル作品以外の単独作品でも、スーパーヒーロー映画の新作が公開される度にシリーズ最長記録が更新されているが(3月に公開される『THE BATMAN ザ・バットマン』の上映時間は2時間56分である)、ネット上におけるスーパーヒーロー映画のファンダムの大部分はそれを好意的に受け止めている。バンドやアイドルのコンサートが長ければ長いほど、「推し」と時間を共有できたことの満足度が上がるのと似たファン心理がそこにはあるのかもしれない(個人的にはどんなライブや映画でも2時間を超えると長すぎると思ってしまうのだが)。もちろん、そこでは1時間30分〜2時間という上映時間から編み出された、映画脚本におけるいくつかの基本的なセオリーが顧みられることはない。ウェブで既に公開されている『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』の脚本の精巧さには舌を巻くしかないが、それは「よくできた脚本」ではあっても、そのアクロバティックな構成や、過去作品のレファレンスによって可能となったキャラクターの背景描写の大胆な省略は、映画の脚本としてはあまりにもいびつなものだ。
とはいえ、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』終盤の忘れがたい名シーンについて触れないのはフェアではないだろう。恋人のMJや親友のネッドを含めたすべての人間が自分のことを忘れ去ってしまった世界で、「再会の挨拶」のメモを片手に意を決してMJがバイトをするドーナツショップへと向かうピーター・パーカー。ピーターがドーナツショップのドアを開けてMJに恐る恐る話しかけたところで、MJは彼の肩越しにガラスの向こうのネッドに微笑み、店に入ってきたネッドはそのままピーターの後ろを通りすぎて奥のカウンターに腰かけ―という一連のアクションに続く、画面の奥行きと表情のクローズアップを見事に捉えた切なすぎる数分間のシーンのことだ。YouTube動画の作り手から商業映画監督としてのキャリアを歩み始めたばかりのタイミングでこの巨大フランチャイズにスカウトされたジョン・ワッツは、複雑に入り組んだストーリーと次から次へと登場するキャラクターたちの処理に追われ続けた3部作の最後の最後で、その手腕と意地を見せつけたわけだ。作品が終わった直後、なんだかすごくいい映画を観たような錯覚にあなたが陥ってしまったとしたらそれはこのシーンのせいだろう、と言ったら言い過ぎだろうか。
『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は、プロデューサーも脚本家も監督も役者も考えうる限りの最善を尽くした文句のつけようのない作品であり、その成果もマーベルスタジオにとってもソニーにとってもディズニーにとっても文句のつけようのないものとなった。しかし、2年前の時点で映画から遠く離れて(ファー・フロム・ホーム)いたマーベル映画は、ここにきて後戻りのできないところ(ノー・ウェイ・ホーム)まで到達してしまったようにも思える。「大いなる力には大いなる責任が伴う」。今、その言葉を誰よりも噛み締めているのは、ケヴィン・ファイギとエイミー・パスカルかもしれない。