村山由佳×上野千鶴子
自由を生きた伊藤野枝の存在は、
私たちへの大きなメッセージ
婦人解放運動家でアナキスト・伊藤野枝の短くも激しい人生を描いた村山由佳さんの評伝小説『風よ あらしよ』。2020年に刊行されるや否や大きな話題を呼び、第55回吉川英治文学賞を受賞し、ドラマ化もされました。文庫化を記念して、解説を書かれた上野千鶴子さんをお招きした対談をお届けします。
明治から大正にかけて自由を求めて闘い、男を愛し、子を産み育て、3番目の夫・大杉栄と甥とともに28歳で憲兵隊に虐殺された伊藤野枝。その波乱の人生は、様々な書き手によって描かれてきました。上野さんの解説はこう始まります。〈すでに傑作と評判のある伊藤野枝伝があるところに、後から手を出す書き手はどんな蛮勇の持ち主だろうか?〉
村山さんを“蛮勇”に駆り立てた思い。野枝をめぐる男と女の人物評から、昨今のアナキズムブームまで。初対面のお二人の熱い対談をお楽しみください。
構成=砂田明子/撮影=露木聡子
寂聴さんの『美は乱調にあり』を
どう読んだか
村山 すばらしい解説をありがとうございました。この本を上野さんがどのように感じられるのか、果たして解説を受けていただけるのか……ものすごくドキドキしていたんです。一行目から、背筋がしゃんとのびました。
上野 うかつに引き受けて、えらいめにあいました(笑)。
今年の1月、NHKEテレの「100分deフェミニズム」に出演した時に、敬愛する歴史家の加藤陽子さん(東大教授)が、フェミニズムの名著として森まゆみさん編の『伊藤野枝集』を挙げておられました。加藤さんご自身は、ものすごく緻密で知的な文章を書く方なのに、伊藤野枝の文章は粗雑で、とうてい緻密とはいえません。えっ、この人がこの本を選ぶの? と、落差に驚きました。それでも読んでみたらとても面白くて。もちろん瀬戸内寂聴さんの本(『美は乱調にあり』『諧調は偽りなり』上・下)はずいぶん前に読んでおりましたから、ああ、もう一冊、伊藤野枝の本が出たのね、と軽い気持ちで引き受けました。
けれど解説を書くとなると、既にある本を参照しないわけにはいかない。寂聴さんの三冊を読み直し、栗原康さんの『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』も読み、そして村山さんの本(単行本)が届いたら、驚くべき厚さでした。
村山 赤い鈍器と呼ばれております……。
上野 さらに関連文献もありますし、これだけ読まなきゃいけない仕事をうかつに引き受けてしまったなと後悔したのですが、結果は、大変面白うございました。
村山 何より嬉しいお言葉です。
上野 今日はまず、寂聴さんご自身も自負をもっておられ、評価も高い、伊藤野枝の評伝がすでにあるなかで、どうしてお書きになる気持ちになったのか。それをお聞きしたいと思ってやって来ました。
村山 解説に書いていただいた通り蛮勇といいますか、無謀だったと思うんですが、きっかけは、編集者の勧めだったんです。栗原康さんの評伝が話題になっていた時期に、村山さんが書いたら面白いんじゃないかと。野枝と私が似ているところがある気がすると言われたんです。
上野 ほおー。どこですか。
村山 どこかしらと思いまして、学生時代に読んだきり記憶の彼方だった寂聴さんの本を読み直しました。栗原さんの本も読みました。
上野 寂聴さんを読み直して、どう思われたかをお聞きしたいです。
村山 寂聴さんは、伊藤野枝のことをあまり好きじゃないのかな、と感じました。憑依して書かれているし、後にこの作品を誇れる仕事とおっしゃるのもわかるんだけど、ちょっと野枝に冷たくないですか、と。うがった見方かもしれませんが、同族嫌悪なのか……私が野枝の著作を読んで感じた気持ちとは、だいぶ温度差がある気がしたんです。もっと味方になってやってもいいんじゃないかな、と歯痒く思いました。
上野 そういう気持ちがないと、野枝の評伝に手を出せませんよね。「私が書く」「私でなければ書けない」という自負がないと。
村山 ああ、確かに。
上野 寂聴さんの伊藤野枝への思い入れは、夫と子どもを捨てて男に走った女に対する同一化だったと思います。その割に、捨てた男と子どものことは、あまり出てきません。例えばそういうところを、村山さんは冷たいと感じられた?
村山 そうですね。瀬戸内晴美さんだった頃の寂聴さんが、子を置いて出奔されたことは皆よく知っているわけで、その寂聴さんが野枝をお書きになるなら、そこはすごく読みたかったところでした。かばうなり、否定するなり、どう感じていらっしゃったのかなと。
上野 捨てた子どものことは彼女の生涯のトラウマでしたから、封印されたのかもしれませんね。そこは彼女の抑制だったのかもしれません。
野枝の「この瞬間を知っている!」
と思いました
上野 野枝とは、どこが「似ている」と思われましたか?
村山 性格は全然違うんです。
上野 性格が似ていたら、私は村山さんとお友達になれませんよ(笑)。私は小説でも歴史上の人物の評伝でも、この人と同時代に生きていたら友達になりたいかを考えながら読むほうですが、伊藤野枝はお友達になりたくない人です。盥で食事を作るとか、勘弁してください。
村山 鏡の裏をまな板にして使った、というエピソードもありましたね。そういうところは幸い似てないんですけど(笑)、野枝が人生の岐路で選ぶ道を、「あっ、この瞬間を知っている」と、何度か思ったんです。さんざんこちらに尽くして育ててくれた人を、思い切り踏みつけ裏切って出て行ったような経験が、私にもあったので。
上野 そこですか!
村山 はい。別離のとき、背中を見送られている間は、これまでの日々を思って胸が痛むんです。だけど角を曲がったとたんに、ああ、自由だ! と晴れ晴れとするような感情を、私も知っていると思ったんですね。
上野 野枝にはものすごい生命力、自己肯定力がありますよね。この時代に限らず、どの時代にも、珍しい人だと思います。
村山 私は母との関係性のなかで、自己肯定感を持つのが難しいまま大人になったところはあるんです。なのに、ヘンなところで自信があるというか、一人になっても大丈夫というか。
上野 そこも似ている?
村山 かもしれないと。私の場合は自分に自信がない部分と、やみくもな自己肯定感、その両方がないまぜになっているんですが、彼女の行動を見ていると、結局やっていることは同じじゃないかと。
上野 では憑依しただけでなく、憑依される快感も味わわれましたか?
村山 まさしくそうですね。
上野 それは幸せな出会いでしたね。
村山 はい。ただ、評伝小説を書くのは初めてで、準備にはずいぶん時間がかかりました。
上野 今回、寂聴さんの本を読み返して、改めてびっくりしたんです。「私」がしょっちゅう顔を出すでしょう。小説というよりルポルタージュ仕立てになっている。栗原さんの本に至っては、野枝にかこつけて自分のアジテーションをしている。対して村山さんの作品は、よくお調べになっていて、2002年に発見された新資料、野枝が時の内務大臣・後藤新平にあてた4メートルもの手紙もちゃんと引用されています。これは寂聴さんにはできなかったことの一つだと思いますが、そうした資料を踏まえた上で、村山さんは見事に「小説」を書かれていると思いました。
村山 ありがとうございます。