この「楽天地バッティングセンター」ではオープン直後に、当時巨人ヘッドコーチだった南村侑広による野球教室が開かれている。その模様を写した写真を見てほしい。運動着ではなく全員が私服、もしくは学生服で参加している。「プレイするために着替えなくてよかった」、これは都市型の娯楽産業としてバッティングセンターが流行するための、極めて重要な要素であったと思う。

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楽天地バッティングセンター開店間もなく行われた、巨人ヘッドコーチ(当時)南村侑広による野球教室の様子(写真提供:株式会社東京楽天地)

複合型娯楽施設に

しかし1970年代に入り、バッティングセンターの流行は落ち着きを見せる。日本中でボウリングブームが巻き起こったためである。そして皮肉なことに、このボウリングブームが後に日本にバッティングセンターを復活させる最大の要因となったのだった。以下は、北海道新聞の取材に応えた、河合和彦氏による回想である。

<「第一次バッティングセンターブームが起きた後、ボウリングブームが訪れた。野球以上の凄い人気で、日本中にボウリング場が出来てバッティングセンターからも客足は遠のいた。ところが1976年頃、人気が去ったボウリング場の経営者達が、ボウリングよりは設備投資のかからないバッティングセンターを駐車場など敷地内の余っていたスペースに開設し始めた。こうして日本中で第二次バッティングセンターブームがやってきた。」>(05(平成17)年7月4日付・北海道新聞)

多少の補足が必要だろう。ボウリングブームが去った原因としては、73年に起こったオイルショックから始まる不況によるところが大きい。ボウリングブーム絶頂期の72年、日本には3697か所ものボウリング場が存在していた。その一部がバッティングセンターを併設するようになり、その数を増すとともにバッティングセンターという存在が日本中に定着していった。総務省の調査によれば、ピーク時の70年代には全国で約1500か所ものバッティングセンターがあったそうだ。

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現在の楽天地ビル(撮影:カルロス矢吹)

だが老若男女に親しまれていたボウリング場と違い、バッティングセンターに来る客のほとんどは男性であった。そこで女性客を取り込むために導入されたのがオートテニスだったのである。ボウリング場では行列を作る客を退屈させないように、レストランやゲームコーナーを設けているところも多かった。こうして70年代後半に「ボウリング・バッティングセンター・レストラン・ゲーム・オートテニス」といった、現代の「ラウンドワン」のような複合型娯楽施設の雛形が生まれた。