爆心地からの同心円が持つ罪
「12㎞の円にとらわれてきたんです。その外側の被害に、考えが及んでいなかった」
そう自戒を込めて言う山本さんは原爆投下当時、爆心地の南東に約8.5㎞離れた旧茂木町(長崎市)にいた。当時10歳で、米軍機に投げつけるための石を友人のタカノ君とともに拾っていたところだった。ブーン、と飛行機が飛び去る音が聞こえた直後、閃光に包まれ、大地がグラグラと揺れた。気が付くと、うつ伏せで倒れていたという。
目が覚めても、タカノ君の姿は見当たらなかった。後に聞いたことだが、姉に抱きかかえられて家の押し入れへ逃げ込んだらしい。だが、その後もタカノ君と再会することはできなかった。たった9歳だった少年は、下痢に苦しんだ末、60日後に旅立ったのだ。「次は俺の番じゃないか」。山本さんは、恐怖に襲われた。下痢が放射線による急性障害の一種だと知るのは、ずっと後だ。
しかし、山本さんがいた地域は被爆者としての援護が否定されている。詳細は前回記事を参照してもらいたいが、長崎で被爆者に認定される地域は、爆心地から南北に最大約12㎞、東西には約7kmの範囲(下図の桃色と青色のエリア)だ。外側にある黄色のエリアが山本さんをはじめとする「被爆体験者」がいた地域とされているが、「放射能の影響なし」とされ、限定的な施策しか講じられていない。
同じ半径12㎞圏内で、援護に格差が生まれていた。山本さんは2001年、各地で運動を続けてきた16人を集めて長崎市に要請活動を行い、その後「長崎被爆地域拡大協議会」を結成。正円の中にいた全ての人を「被爆者」として救済せよ、との運動を広げていった。
だが、山本さんは悔しそうに話す。
「格差をただすために、調査も運動もこの中に狭められてきた。この同心円が持つ罪も大きいんです」
長崎総合科学大学名誉教授の大矢正人さんによると、半径12㎞圏外で、黒い雨や灰に着目した証言調査は実施されていない。被爆者団体がまとめた体験集はあるが、遠距離での被ばくに焦点を当てたものは確認できていないという。長崎市などが1999年度に実施した証言調査も、半径12㎞以内に居住していた住民が対象だった。
大矢さんは言う。
「半径12㎞圏内の格差是正が主眼にあったことに加え、長崎には残留放射線のデータがあった。証言を取ることがかえっておろそかになったのではないでしょうか」
長崎には、広範囲に放射線が及んでいたことを示唆するデータが残っている。米軍のマンハッタン管区原爆調査団(1945年9~10月)と、理化学研究所(同年12月~1946年1月)がそれぞれ実施した調査では、島原半島を含む広域で残留放射線が検出されていた。理研の調査では、長崎市付近の一部よりも高い値が島原半島東端で確認されており、報告書は「原子爆弾による影響は有明海を越えて遠く熊本までも伸びていると想像される」と指摘している。
「原爆の影響がどこまで及んだのか。その範囲を証言によって確定していきたい」と、大矢さんは話す。山本さんと共に半径12㎞の外側へ足を運び、島原半島や諫早市で「灰を拾った」などの証言を聞いた。
後にノーベル化学賞を受賞した下村脩さんの著書『クラゲに学ぶ ノーベル賞への道』(長崎文献社)の中にも、当時の雨に関する詳しい記述を見つけた。下村さんは爆心地から東に約20㎞離れた諌早市にあった母の実家に疎開しており、「晴れていた空はたちまち暗雲に覆われはじめ、私が午後5時に帰宅する時にはしとしとと雨が降り出した。それは黒い雨であって、私が1時間後に家に着いた時には白いシャツが黒く染まっていた」と書き記していた。
終戦直後のデータと、生の証言。県の郊外にも被ばくがもたらされた可能性が、浮かび上がってこないだろうか。