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バイオリンの天才児は
なぜデリヘルドライバーになったのか
デリヘル(デリバリー型ヘルス)は性風俗の一形態で、デリヘルドライバーはその名のとおり、デリヘル嬢を客の自宅や宿泊しているホテルに派遣(デリバリー)する仕事だ。
ライターの東良美季(とうらみき)さんはそんな男たちに興味をもち、「東京の闇を駆け抜ける者たち」に話を聞いた。そのなかに「バイオリン」という章がある[*1]。
*1 東良美季『デリヘルドライバー』駒草出版
中学生の全国大会で優勝
風見隼人(かざみはやと)の親は千葉県庁の職員をしていた共働きの夫婦で、船橋市の公営団地で育った。
母親は若い頃音楽大学に通っていて、自宅にはアップライトのピアノがあった。母の弾くピアノを子守り歌に育ったからか、風見は3歳のとき、テレビでオーケストラの演奏を見て第一バイオリン奏者を指差し、「ボク、あれをやってみたい」といったという。
喜んだ母親が町内にあったバイオリン教室に息子を通わせると、「この子は私のところで習わせるにはもったいない。もっと専門の、有名な先生につかせた方がいい」と助言された。
そこで小学校1年から、東京の講師のところに週1回、1時間かけて通うようになった。
風見には誰もが認める才能があり、小学校6年生のときにはじめて出場した全日本学生音楽コンクールの東京地区大会本選では「指がもつれて」失敗したものの、リベンジに挑んだ中学生の部の全国大会では満場一致で優勝した。
高校から桐朋学園大学音楽学部の系列校に入学すると、一学年100人ちかくいるなかで男子は3人だけだった。
風見は目鼻立ちのはっきりした美少年だったが、人気があったのは容姿が理由ではないという。まわりの女の子たちも音楽家なので、彼の才能をたちまち見抜いて憧れたのだ。
2学年上の女子生徒に「襲われるようにセックス」して初体験をすませた頃、風見の父親が訪ねてきて、どちらの親とも血がつながっていないと告げられた。
夫婦は子宝に恵まれず、親しくしていた産院の院長に「ご縁があったら」と頼んでいたところ、赤ん坊を身ごもった女子大生が現われ、出産したあとに姿を消したのだという。
だがこの話を聞いても、風見はまったくといっていいほどショックを受けなかった。中学の頃から、家に遊びにきた友だちに「お前、親と全然顔似てねえな」といわれ、薄々そうじゃないかと思っていたのだ。
バイオリニストとして成功するには、若手音楽家の登竜門である日本音楽コンクールから、モスクワで開催されるチャイコフスキー国際コンクールや、ベルギーのブリュッセルで開催されるエリザベート王妃国際音楽コンクールで受賞し、凱旋しなければならない。
「クラシックの演奏家って、日本一程度じゃダメなんです。ましてや学生日本一なんてまったく話にならない」のだ。
だがここで、風見は伸び悩みはじめた。自身の才能に疑いをもつようになったのだ。
「要するに上には上がいるってことですよ。世の中には本物の天才ってヤツがいるんです」と風見はいう。それに加えて、彼には金と努力が決定的に欠けていた。