こんなに心臓に悪い話を書くことは
今後ないんじゃないか(笑)

―― 上司の命を受け、二年間限定でやむを得ずスパイの役目を引き受けた樹は、東京・世田谷区の二子玉川にあるミカサ音楽教室に週一で通うことになる。そこで師弟関係を結ぶのが、樹より少し年上のチェロ講師・浅葉桜太郎です。レッスン初日、ボールペン型の録音機を胸に挿した樹が緊張感満点で教室の中に入ると、浅葉は〈この教室の雰囲気にはとても似つかわしくない部屋着のようなスウェット姿に、真白いタオルを巻いた頭〉。ゲリラ豪雨に遭ったという言い訳から始まる、出会いのシーンはインパクト抜群でした。

 ドアを開けたら先生がいるという設定は考えたんですが、先生がどういうキャラクターなのかはあまり想定していませんでした。そうしたら、タオルを頭に巻いて登場してしまった。熟練のベテラン役者を舞台に連れてきたみたいな感じで勝手に動くし、キャラクターがかなり強いので、どんな場面でも浅葉は書きやすかったです。

――浅葉はハンガリー国立リスト・フェレンツ音楽院卒業の経歴を持ち、陽気な性格で人当たりが良く、教え方も熱心で、なにより奏者として尊敬できる。樹の中に、「この人を騙さなきゃいけないんだ……」という罪悪感が募っていきますね。

 そこをしっかり描くためにも、浅葉の存在は重要でした。チェロの腕前、技術面に関しては参考資料を元に裏付けしつつ、一番悩んだのは経歴の部分です。具体的に言うと、浅葉がどの国に留学していたことにしようかな、と。たまたまハンガリーについての資料を読んだ時に、ドナウ川にかかる美しい橋が観光名所になっているという記述を見つけて、二子玉川にある大きな橋を思い出したんです。二子玉川の賑やかさやきらびやかさと、多摩川を橋で渡った向かい側にある、二子新地というちょっと寂れた街のコントラストは、この小説にとっていい効果をもたらすんじゃないかという予感もあって、決めました。

―― デビュー作における「北品川の踏切」や本作の「二子玉川の橋」など、安壇さんの小説はロケーションが鮮烈です。なおかつ、場面場面の映像喚起力が強い。登場人物たちがいる場所が抽象化されず、背景が常に目に浮かぶんですが、意識されている点はありますか?

 基本的に、背景のことばっかり考えています。地下室のシーンだったら、地下室のシーンが固まるまで何度も書き直す。レッスン室のシーンだったら、レッスン室の絵が固まるまでやる。そこがクリアできると、そこにいる人たちが自然と出てくる、生まれてくるんです。「こういう役割だから、こういうキャラクターにしよう」とか、登場人物たちの履歴書を詳しく作り込むようなことはほとんどしないです。「いる」と勝手に思い込むというか、ヘンな言い方かもしれませんが、あまり演技指導しない。勝手に動いてもらって、その人のひととなりが出たな、と感じられるところをこちらが拾って繫げていく感じです。

―― 教室でのレッスンは二人きりですが、浅葉は教え子たちと月一で、行きつけの二子新地のレストランで懇親会を開いている。そこへ樹も参加するようになり、人と繫がる喜びを感じるようになる。そのこともまた、己がスパイであることの罪悪感、緊張感が高まる理由となっていきますね。

 主人公は根が真面目ですし、孤独に輪をかけて孤独みたいな人なので、初めて仲間と言えるような存在ができちゃったらつらいだろうなと。潜入調査のリミットが近づけば近づくほど絆が強まってしまい、仲間を裏切り難い環境にどう持っていくのかは、プロット上もっとも大事にしていたポイントの一つでした。

―― 普通のスパイものは、その「環境」をマフィアや大企業に設定するんですが、音楽教室でやってのけている。日常的な舞台で、こんなにも非日常的なスリルが作れるんだと驚かされます。

 こんなに心臓に悪い話を書くことは、今後ないんじゃないかと思いました(笑)。過去二作では主人公と自分が切り離されていたんですが、今回は主人公がドキッとするシーンで、私もちゃんとドキッとする。役に乗れている、みたいな状態になったんです。特に終盤は主人公の心情とのシンクロ具合が尋常ではなかったので……、寿命が縮んだな、と思っています。

時間と信頼」が導いた
永続性を感じさせるラストシーン

―― 潜入先が音楽教室だったからこそ描けたテーマがあったのではと思います。何かを学ぶこと、楽器を演奏すること、それらを誰かと一緒に行うことの楽しさは、他の何ものにも代え難いものであるという感触です。ラスト直前、意外な人物の口からその喜びが告げられています。

 それはメッセージというと大袈裟ですけれども、今回すごく書きたかったところでした。例えば子供がピアノを習うという時に、プロを目指すかといえば、ほとんどはプロにならないじゃないですか。でも、ピアノに懸けた時間は無駄じゃないですよね。それは大人でも同じで、「何のためにやっているの?」と聞かれたとしたら、「楽しいからやる」でいいと思うんです。
 音楽に限らず、小説だって別にプロにならなくてもいいわけですし、楽しみのためだけにやる、熱心にやる、ということへの理解があまり世の中で共有されてない感じを受けます。序盤の浅葉のセリフにもあるんですが、一週間に数十分だけのレッスンをして、その日ほんのちょっと楽器が上手くなって嬉しいというだけでも、得難い体験であるなと思うんです。

―― 樹の内側にそういった感触が連なっていった先で……終盤の展開の畳み掛け、素晴らしかったです。

 書き終わるか否かのタイミングで、「ところで、この作品のテーマって何なの?」と考えてみたんです。その時に、これは「時間と信頼」の話なんじゃないかなと思いました。時間を重ねるにつれて、相手との信頼関係が醸成されていく。そうやって出来上がったものは、ある一点の事実のみで壊されてしまうものなのだろうか、そうではないんじゃないだろうか、と。

―― 安壇さんはこれまでの作品の中でも、主人公が他者との関係の中にいかにして希望を見出すか、というトライアルを続けてきたと思うんです。ご自身は今回どのような希望が描けたと思ってらっしゃいますか。

 デビュー作は、サラリーマンの主人公がネットを介してウォッチングし続けてきた「天龍院亜希子」と一度も出会わないという、そもそもデタッチメントな感じでした。二作目は相容あいいれない二人の女の子が、刹那だけちょっと理解し合って、後は離れる。そして今回は、永続性が感じられるいいラストになったなと思っています。エピローグは、この小説で一番好きなシーンです。

―― 安壇さんには純文学のテイストを感じていたので、最初は「スパイ小説!?」と意外だったんです。でも、エンタメに挑戦することによって、安壇さんがもともと持っていたものが引き出されたんだ、そして先へと進めたんだと感じました。

 二作目が自分なりに満足のいく作品だったので、そこを踏まえてもう一段階、もっといいものを書くにはどうしたらいいかと悩んでいたところで、私に「スパイものを」と提案してくれた編集者さんに感謝しています。キャラクター描写などは自分のベースのままで、ちょっと大きい物語に組み込んでいくことができた。自分はこういうものも書けるんだという驚きは、今後も小説を書き続けていくうえでの自信になったんです。

オリジナルサイトで読む

ラブカは静かに弓を持つ
安壇 美緒
『ラブカは静かに弓を持つ』 安壇美緒さんインタビュー 潜入先は音楽教室、現代社会人のスパイ小説!
2022年5月2日発売
1,760円(税込)
四六判/312ページ
ISBN:978-4-08-771784-6
武器はチェロ。
潜入先は音楽教室。
傷を抱えた美しき潜入調査員の孤独な闘いが今、始まる。
『金木犀とメテオラ』で注目の新鋭が、想像を超えた感動へ読者を誘う、心震える“スパイ×音楽小説”!

少年時代、チェロ教室の帰りにある事件に遭遇し、以来、深海の悪夢に苛まれながら生きてきた橘。
ある日、上司の塩坪から呼び出され、音楽教室への潜入調査を命じられる。
目的は著作権法の演奏権を侵害している証拠をつかむこと。
橘は身分を偽り、チェロ講師・浅葉のもとに通い始める。
師と仲間との出会いが、奏でる歓びが、橘の凍っていた心を溶かしだすが、法廷に立つ時間が迫り……
amazon 楽天ブックス honto セブンネット TSUTAYA 紀伊国屋書店 ヨドバシ・ドット・コム Honya Club HMV&BOOKS e-hon