デタッチメントでも刹那的でもない、
永続性のある関係を
小説すばる新人賞出身の安壇美緒が、第三作『ラブカは静かに弓を持つ』で大化けに化けた。連載中から掲げられていたキャッチコピーは、「スパイ×音楽小説」。心細く震える登場人物たちの群像を描く作風はそのまま、緻密なプロットで練り上げられたエンターテインメント大作となっている。潜入先は音楽教室。傷を抱えた美しきスパイは、孤独な戦いの果てに何を見るのか。
聞き手・構成=吉田大助/撮影=HAL KUZUYA
現代の東京を舞台にした
驚きのスパイ小説
―― 第二作『金木犀とメテオラ』は女子校が舞台のみずみずしい青春小説で、人材派遣会社に勤める男が主人公のデビュー作『天龍院亜希子の日記』からガラッと作風を変えてきたと思いました。しかし、第三作『ラブカは静かに弓を持つ』の変貌は、その比ではありませんでした。現代の東京を舞台にしてこんなふうにスパイ小説が書けるのかというのも驚きでしたし、なによりど真ん中のエンタメ作品だったんです。この変貌は、どのようにして可能となったのでしょうか?
二作目の時は、一作目と似たようなものにしたくないなと思い、サラリーマンの真逆というのもヘンですが、女子高生二人の話にしようという発想でした。三作目に関しては、編集者さんから「この題材で書きませんか?」とお話をいただいたんです。音楽の著作権を管理する団体の職員が、音楽教室の演奏実態の調査のために一般客を装って覆面調査した。そして、その職員が裁判で調査内容を証言したという、実際にあった事件です。
―― 数年前、ネットメディアを中心に話題になっていた記憶があります。題材を提案された時、すぐに心は動きましたか。
その事件のことはなんとなく知っていましたし、スパイものを自分が書くなんて考えたこともなかったけれども、やってみたら面白いかも、と。一作目、二作目はごりごりのエンタメという感じではなかったんですよね。物語の流れがちゃんとあるものを今まで書いたことがなかったので、そこに挑戦してみたい気持ちもありました。
―― 本作はとにかく、プロットが緻密です。意外な展開が目白押しなうえ、展開と展開の繫がりが滑らかなんです。プロットはどのように組み上げていかれたのでしょうか?
著作権のことも音楽のことも全く分からないものですから、とにかく下調べに時間をかけました。実際にあった事件を調べて、時系列を細かく確定させる。一方で、作中に起こる出来事のカレンダーを作り、もう一方で主人公の感情の起伏をつぶさに追って、三つがうまく絡み合うようプロットを考えていきました。ただ、きっちりプロットを立てたのは第一楽章(第一部)だけで、第二楽章(第二部)は出たとこ勝負でした。
―― それなのにこの滑らかさ……。
書き直しに次ぐ書き直しで、どうにか成立させた感じです。がたついているというか、違和感があったり間延びしているところを修正したら、また頭に戻って一からチェックして。頭から終わりまで、五、六回は書き直しました。
『羊たちの沈黙』のサントラを
聴きながら原稿を書いていました
―― 主人公は、全日本音楽著作権連盟、通称・全著連の職員である二五歳の橘樹。物語の冒頭、資料部へ異動したばかりの彼は、新しい上司である塩坪信宏から地下の資料室に呼び出されます。「君、チェロが弾けるんだってね?」。樹は五歳から一三歳までチェロを習っていたものの、ある事件のせいで音楽から離れていたんですね。そのことを知らない塩坪は、「橘君。君にミカサ音楽教室への潜入調査をお願いしたい」。素性を隠して業界最大手の音楽教室でレッスンを受け、教室で著作権がおよぶ楽曲が演奏されている証拠を集めてほしい、と……。冒頭二〇ページ、素晴らしくスリリングです。
実際の事件を知らない方にも概要を説明しなければいけなかったんですが、著作権における「公衆」の定義などどうしても専門知識が多くなってしまうので、書き過ぎないよう注意しました。冒頭部の雰囲気を気に入ってくださったとしたら、『羊たちの沈黙』のおかげですね。実は、たまたま今回の題材のご提案をいただく直前に『羊たちの沈黙』の原作を読んでいて、出だしの一行がかっこよかったんです。簡略化して言うと〈FBIの行動科学課はクワンティコの建物の地下にある〉という文章で、私の小説の出だしの一行〈全日本音楽著作権連盟の資料室は陽の届かない地下にある〉は、完全にオマージュです。その後も、最初の章は映画『羊たちの沈黙』のサントラを聴きながら原稿を書いていきました。
―― 楽器を弾く時は、自分の中に曲の「イメージ」を取り入れることが大事だという文章がのちに出てきますが、小説でも同じなんですね。
元々、映画のほうのファンだったのでBlu-rayも買いました(笑)。それと、『羊たちの沈黙』は連続殺人事件とレクター博士のおかしな言動の他にもう一つ、ヒロインのクラリスが過去のトラウマを解消するというモチーフが柱になっています。私の小説の主人公にも、クラリスのような心情を負わせてみたらどうかなと思い、樹のキャラクター像が固まっていきました。
―― 樹は「閉じた性格」だと自分でも認識している。タイトルにも採用されている深海魚の「ラブカ」のイメージが、樹の人物像と重なっていきます。
これも本当にたまたまなんですけど、編集者さんから最初のお電話をいただいた時に、魚介類の形をしたお菓子の「おっとっと」が手元にあったんです。それが期間限定の「深海生物AR」シリーズのもので、ふとスマホで読み取ってみたところラブカも出てきました。名前が気に入って調べてみたら、妊娠期間が三年半という特徴を持つ深海ザメの一種で、滞在先で長期間息をひそめて暮らすスパイのイメージに合っている気がしたんです。実はスパイものってこれまでほとんど触れてこなかったんですが、映画の『裏切りのサーカス』は観ていました。その中でスパイのことを「もぐら」と呼んでいたので、私の小説ではスパイにラブカを当ててみようと思ったんです。
―― そこから樹が折に触れて見る「深海の夢」や、作中作として登場するスパイ映画『戦慄のラブカ』へと繫がっていった、と……。『羊たちの沈黙』といい、直観を物語に落とし込む力が優れていると思います。
事件の経緯とか主人公の行動だけを追う書き方をすると、私の場合、小説がすぐに終わってしまう(笑)。いろんなイメージをミックスして、心理描写の膨らみを出すことで、長編としての体裁を整えていった感じです。