1996年7月21日、アトランタ五輪初戦、ブラジル戦先発メンバー。背番号10を背負った遠藤彰弘(前列右から2番目)に加えマリノスからは川口能活、松田直樹の3名が出場。また主将の前園真聖、城彰二と鹿実出身も3名。ほか中田英寿など豪華なメンバーである(写真/産経新聞社)
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サッカー人生が終わってもいい覚悟だったアトランタ五輪

「マイアミの奇跡」による代償は大きかった。

1996年7月21日、オレンジボウル。アトランタオリンピック、グループリーグ第1戦において西野朗監督率いるU-23日本代表が、優勝候補筆頭のU-23ブラジル代表を1-0で撃破するアップセットを起こした。ベンチに下がっていた背番号10は喜びで一瞬、吹き飛んでいた左アキレス腱の痛みに、まわりに気づかれないレベルで顔をしかめた。

「代表のドクターから『この状態でプレーしたら、サッカーを続けられなくなるかもしれない』と言われていたんですよ。でも『それでいいです』と伝えて、西野さんにも言わないでほしいとお願いしました。“俺、この試合でサッカー人生が終わってもいい”とさえ思っていました。それほどの覚悟でしたから。でもずっと後になって西野さんに聞いたら『全部知っていたよ』と言われてびっくりしました。ドクターから聞いて、それでもやれると判断してくれたんだと思います」

2023年現在、故郷の鹿児島に戻って後進の育成、指導に勤しむ遠藤彰弘はそう言って、27年前と同じ顔つきをした。

ケガを隠して右ウイングバックのポジションに入った。あのロベルト・カルロスに対峙し、突破を阻もうと食らいついた。ウォーミングアップ前、試合前、そしてハーフタイムと3度も痛み止めの注射を打っていた。サッカー人生を終えてもいいという凄まじい気迫は、チームメイトをも奮い立たせていた。ビッグセーブを繰り返す川口能活は、1994年に横浜マリノスに加入した同期であり、戦友であった。言葉はなくとも通じ合うものが2人にはあった。

アトランタオリンピックでの出場はブラジル戦のみに終わった。左アキレス腱痛がひどくなり、プレーの継続が難しくなったためだ。グループリーグを勝ち上がることはできなかったが、ブラジルを破った事実は遠藤にとって何事にも代えがたい勲章となった。