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主役は、一匹のモグラのおじさん

心の危機は、越えられそうもない壁に直面したときに訪れるのでしょうか。それとも、平凡な日常から、ふいにやってくるのでしょうか。

これからお話しするのは、みなさんが歩かれている地面の下の、まっ暗な迷路の世界で起きたできごとです。主役は、一匹のモグラのおじさんです。名前をユーさんといいます。

青空がまぶしい秋の日の昼下がりのことです。街はずれの公園では、池のまわりを飛び交うアキアカネを追いかけ、捕虫網を持った子どもたちが走り回っていました。実にのどかな光景です。しかしその直下では、モグラのユーさんがシャベル代わりの手を腰に当て、トンネルのまん中で突っぷしていました。もちろん、真上の公園とは対照的に、陽の差さない地下世界ではなにも見えません。一年を通じて変わらない土の匂いと湿気のなかで、ユーさんは茫然としていたのです。

もしも土を掘り続けることに疑問を持ったモグラがいたとしたら…ドリアン助川が描く「モグラの限界状況」_1
絵/溝上幾久子
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ふだんは、土があれば掘らずにはいられないユーさんです。なぜ、心ここにあらずといった様子で動きを止めていたのでしょう。それは、ユーさんの耳が偶然に捉えた音、おそらくはニンゲンの声が原因でした。

トンネルの壁に体を擦りつけながら移動するモグラは、円筒形の体をしています。耳も飛び出していません。滑らかな毛が覆う頭部に二つの孔があいているだけです。ただ、その感度はバツグンです。しかもトンネル内は、空気振動が拡散せずに伝わるので、ミミズのダンスやオケラの演奏だけではなく、地表のニンゲンの生活音も聞こえてしまうのです。金属の伝声管を通すように、すこし離れた場所のニンゲンの言葉もはっきりと聞こえます。

「ヘイ、ユー!相変わらず、つまんねえことしてんな!」

ユーさんが聞いてしまったのは、下町のあんちゃんが友人をからかうような、どこかに親しみのこもった声でした。気にする必要はなかったのかもしれません。しかしユーさんの胸に、この声はぐさりと刺さりました。「つまんねえ」という言葉が、体の奥までめりこんでしまったのです。

ちょっと待った。ニンゲンの言葉をモグラが理解できるのか?と疑問を持たれた方もいらっしゃるでしょう。そこのところは……よくわかりません。ただ、野山や田畑だけではなく、ニンゲンが暮らしている街の地下にも、モグラたちは迷路の世界を造りあげています。モグラは原始時代からずっと、ニンゲンの言葉を耳にしてきました。それに気づいていないのは、我々ニンゲンの方なのです。