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選挙は晋太郎の生き甲斐

平成2(1990)年2月の衆院選は、晋太郎が清和会の会長に就任後、初めて迎えた衆院選であった。晋太郎は、一人でも多くの同志を当選させるため、まさに命がけで戦った。

晋三は、晋太郎が選挙を前にいつものように昂揚しているのが分かった。
「選挙は、命がけでやるものだ」というのが、晋太郎の持論である。晋三の目から見ると、竹下登の選挙好きは、選挙そのものをゲームとして見ているような気がするが、本質的に攻めの性格である晋太郎は、選挙の戦いのなかで、ある種の生き甲斐を見出しているとしか思えなかった。  

実際、晋太郎は選挙戦に突入すると、自分の健康のことなど忘れてしまう。武士が合戦で渡り合うとき、自分の体の一部の痛みなど意識しないのと同じである。 

医師は、晋三に告げていた。
「いくら体を酷使しても、それはあまり寿命とは関係ありません」 晋三には、それが本当なのかどうかは分からない。しかし、「親父がやりたいことをやらせたほうがいいだろう」と判断した。

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「何をやっているんだお前!」森喜朗に激怒した理由

清和会事務総長の森喜朗は、晋太郎と二人で全国を手分けして飛び回った。移動の際には、ヘリコプターをチャーターした。

森が次の応援のため佐賀に向かうためヘリコプターに乗り込んだところ、晋太郎から無線電話がかかってきた。
電話に出ると、晋太郎は「何をやっているのだ、お前は! いま、どこに行っているのだ」と言う。森が「私は、いまから佐賀に行くところですが……」と答えると、晋太郎はこう叫んだ。 

「ダメだ! 早く××に行け!」 晋太郎は、まるで気でも狂ったような熱中ぶりであった。

この総選挙で、清和会はなんと二十二人もの新人議員を当選させた。一つの派閥で新人議員が二十人を超えたのは、自民党の結党以来、初めてのことであった。