「俺もね、灰をかぶったんだ」

海の先にうっすらと山の影が見える。長崎市中心部から東南へ、車を約20分走らせて着く茂木港にいた。東方を望むと、橘湾の向こうに島原半島がある。

はるか対岸を眺めながら、山本誠一さん(87)が言った。

「いまさら、という風に思われるかも知れません。でも、まだまだ原爆当時のことがわからないんですね。放射線はこの海の向こうにも流れていった。広島では30㎞先の被ばくが認められた今、長崎もちゃんと実相を調べないといけないんです」

島原半島は、爆心地から約30㎞離れている。中央部には雲仙岳と呼ばれる火山群があり、江戸時代にはキリシタンが「島原の乱」を蜂起した場所だ。

そこにも、「黒い雨」が降ったらしい。

後述するが、終戦後の調査において島原半島を含む広域で残留放射線が検出されていた。だが、雨や灰といった降下物に着目した証言の掘り起こしは、これまで実施されてこなかった。

山本さんは2021年7月以降、証言を集め始めた。きっかけはその夏に勝訴、確定した広島の「黒い雨」訴訟だ。この裁判では当事者の証言が重要な根拠の1つとなり、爆心地から約30㎞離れた地点で雨を浴びた人も「被爆者」として認められたからだった。

前回お伝えしたように、長崎の「被爆体験者」たちは「広島との差別」に憤り、是正を求めている。爆心地の半径12㎞圏内にいたにも関わらず、「被爆者」としての援護を否定されているのだ。

山本さんも被爆体験者の1人として、援護対象の拡大を求めてきた。だが、自分たちの視野は狭すぎたのではないか――真相を明らかにし全ての被害者を救済するためにも、新たな調査に踏み出したのだった。

「原爆被害はまだ隠されている」 遠距離被ばく 問い直す長崎_1
茂木港の近くにある自宅跡で、原爆投下当時のことを振り返る山本誠一さん=2022年12月13日、長崎市内で筆者撮影
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「山本くん。俺もね、灰をかぶったんだ」

老人ホームで暮らす旧友から山本さんに電話があったのは、広島高裁判決の後だった。原爆投下当時、島原半島に疎開していた五島久嗣さんだ。

広島高裁判決とは前述した通り、「黒い雨」訴訟の二審判決(2021年7月確定)を指す。広島への原爆投下後に降った「黒い雨」を浴びた住民たちが、被爆者健康手帳の交付を求めて国などを訴えたものだ。住民たちが雨を浴びた場所は国の援護対象区域外で、爆心地からの距離は約8.5~29.5㎞と相当な遠距離にいた。だが判決は、水や畑の作物を通して内部被ばくした可能性を指摘し、「被爆者」として認めたのだった。

ニュースを見た五島さんの脳裏にあの日の記憶がよみがえり、思わず電話を取った。山本さんとは50年来の友人であるにも関わらず、体験を打ち明けるのは初めてだった。

1945年8月9日、当時9歳だった五島さんは、爆心地から東に約35㎞離れた旧北有馬村(南島原市)にいた。「パーン」と裏山に爆弾が落ちたような音が聞こえ、驚いて外に飛び出したものの何も起こらない。だがしばらくすると、白と黒のススが混じった燃えかすが空からどんどん降ってきた。不思議に思い、兄と一緒に1時間近くかぶっていた覚えがある。

兄は、29歳の時に腸閉塞で亡くなった。五島さんも脳梗塞や心筋梗塞、さらに胃がんを患っていた。しかし、兄とともにかぶった灰が放射線に汚染されていようとは、考えたこともなかった。75年以上も経ってから、「死の灰」だったのではと思うのだった。

「もう、半世紀も付き合ってるんですよ。なのに、そんな体験は聞いたことがなかったんです。友人でも原爆のことは語らない。人には語れないんですよ。でも、その口を開かせたのが『黒い雨』訴訟だった」

友の告白に、山本さんは衝撃を受けた。そして、まだ語られていない記憶があるのではと気がせいた。

俺もね、灰をかぶったんだ――その証言を遺して、五島さんは2022年8月末に亡くなった。