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実家の倒産が人生の転機に

<ミエのこころえ>

流れに逆らわずに生きてきた。
だから、つらいとか嫌だとか
思ったことがないんです。

子どもが働けるところなんて、
芸能界以外ないじゃない。
自分ばっかり働いて苦労したとも、
思いませんでした。


私は6人きょうだいの4番目。子どものころ、父は九州の小倉(福岡県北九州市)で書店を営んでいて、母も店に出て働いていました。
きょうだいみんな、あれこれ習いごとをしていました。私もバレエやタップダンス、ピアノの稽古に通わせてもらったりして、割合、豊かに暮らしていたんです。

けれど父の店が倒産し、すべてをなくしました。

小倉を離れ、家族で千葉、そして東京に出てきました。最終的に落ち着いたのは四畳半と六畳の家。広い家から一転、親子8人が折り重ならないと寝ることさえできないような狭い家に住むことになったんです。
親はなんとか立て直そうと思っていたんでしょうが、暮らしは一向に上向かず、ついに私の学校の月謝を払うのも大変になってしまったんです。
そのとき私、「よし、働こう」と思ったの。
13歳のときに私は、ラジオの『のど自慢大会』で優勝したんです。
それで、進駐軍のキャンプなどで歌い始めました。
洋楽が好きだった母の影響で、私もジャズが好きだったの。ジャズを小さな女の子が歌っているからか、キャンプではすごく受けて、評判は悪くなかったみたい。

そうしているうちに、渡辺プロダクションへの紹介状をくれた人がいたんです。

それで私、「これだ!」と思って、紹介状を持ち「雇ってください」と出かけていったんですよ。
親なんかついてきてくれないわよ。ひとりで、電車に乗っていったんです。
紹介状があったところで、すぐに雇ってくれるはずもありません。

でも、14歳の子どもが働けるところなんて、芸能界以外ないじゃない。
自分が働く場所は、縁をもらったこのプロダクションしかないと思っていたから、こっちだってあきらめるわけにはいかない。

毎日毎日、私、通いました。
行ってもすることがないので、事務所でうろうろしているわけ。そのうちにいるのが当たり前みたいになって……完全に、押しかけですね。
実を言えば、歌手になりたいとは思ってなかったし、芸能界への憧れもまったくなかったんです。
歌も嫌いではなかった程度で、それほど好きでもなかった。

「何がやりたい?」と聞かれたときに「歌ってみようかな」と答えたのは、それ以外思いつかなかったから。
とにかくお金を稼ぎたいというだけだったの。
でも渡辺プロに巡り合えたことは、本当にラッキーでした。

渡辺プロは、当時まだ差別や偏見が残っていた芸能人の待遇改善と地位向上を目指して生まれた新しい芸能事務所だったから、タレントを大切にしてくれました。