「ベルばら」は、少女漫画の革命である

「ベルばら」の中で誰が好きですかと問われれば、やはり女性で貴族なのに革命に身を投じるオスカルです。池田さんは「オスカルは私の分身のようなもの」と語ります。

「女の幸せは結婚し、子どもを産み育てること」とされていた時代、池田さん自身がペンをとって果敢に抗っていたのではないでしょうか。

実際「ベルばら」を連載するにあたり、「おんなこどもに歴史がわかるわけがない」とベテラン男性編集者が猛反対したというのは有名な話です。ところが読者の女の子たちは熱狂し、「ベルばら」と宝塚が結びついて大勢のファンたちを狂喜させる一大ブームへと発展しました。

愛蔵版3巻のあとがきで手塚治虫がこう述べています。
「どこかの時期に少女漫画は、“少女”の肩書をぬぐい捨てて、おとなになってしまったのだ」「女の子の漫画の革命でもある」

この革命を呼び寄せたのは、女性ファンたちの自立を望む意志だったに違いありません。

オスカルのせりふに重なる「日本国憲法」

貴族のオスカルに対し、そばで仕えるアンドレは平民です。彼はいつかこの命をオスカルに捧げようと、むくわれない愛を誓います。

生まれながら身分によって命や暮らしが平等ではない不条理を池田さんは情熱的に描き、ふたりはやがてお互いの愛を確かめ合うのですが、これがベッドシーンと理解したのは中学生になってから。こうして年齢を重ねながら読みが変わっていく楽しさを感じていました。

社会学を専攻した大学時代には、ひとつの考えが結ばれて確信に変わります。オスカルのセリフが人間の尊厳を語っていると気づいたのです。日本国憲法の精神が池田さんのペンを通しオスカルの全てに体現されていると実感します。

戦前、南方で闘い負傷した帰還兵の父をもつ池田さんが、民主主義へと導いた憲法とフランス革命を重ねたのは、自然なことかもしれません。

オスカルが、貴族の自分は権力を持つが行使しない、衛兵隊の兵士の反乱に対して、こう叫ぶ場面にその精神が現れます。

「おまえたちの心まで服従させることはできないのだ。心は自由だからだ!」
「みんな ひとりひとりが・・どんな人間でも・・人間であるかぎり・・だれの奴隷にもならない・・だれの所有物にもならない心の自由をもっている」

「教育と愛国」の監督がなぜ「ベルばら」を語るのか_2
出典『ベルサイユのばら』6巻
Ⓒ池田理代子プロダクション

このセリフには続きがあります。「自由」に“つけくわえる”とオスカルがその後こう宣言します。

「自由であるべきは心のみにあらず!! 人間はその指先1本、髪の毛1本にいたるまですべて神の下に平等であり、自由であるべきなのだ」