罪に問われたマスコミ
事件の後、すぐに「マスコミは目の前で起こっている殺人をなぜ止めなかったのか」という批判が沸き起こりました。現場に居合わせ、その一部始終を撮影していた記者やカメラマンの全員が「殺人ほう助罪」で告発され、私の仕事仲間のカメラマンもこの問題に巻き込まれることになったのです。
当時、読売テレビのニュースキャスターだった松田士朗氏は著書でこう語っています。
『張り込む報道陣に、ある種の期待感がそのとき生じたことは確かであろう。もう3日間も、交替しながらではあるが、じっと張り込んでいたのだ。記者の一人は、獲物を目の前にした「待たされたライオン」のような心境だったと述懐している。
(中略)多くは「虚を衝かれたとしか言いようがなく、誰も犯行を止められるような状況ではなかった」と証言、結局は嫌疑不十分で不起訴となり、各社胸をなで下ろした。
しかしながら、「待たされたライオン」たちの目の前で発生したこの事件は、「メディアは常に異常なものを心待ちにしている」ことをいみじくも暴露してしまったのである。』(『テレビを審査する 現場からのTVリテラシー』松田 士朗著・現代人分社)
全く的確な見解だと思います。血まみれの映像を流した私自身も、異常なものを待っていた1人だったのかもしれません。
しかし、実際に素材全てを見た私としては、「誰も犯行を止められるような状況ではなかった」というのは、事情聴取を受けた方々の苦しい弁明としか思えません。犯人がドアをパイプ椅子で叩き出したとき、少なくとも窓ガラスを割りだしたときに、誰か1人でも止めようとすれば、報道陣は大勢いたわけですから警察を呼ぶくらいの時間は稼げたかもしれません。
「虚を衝かれた」のは事実だとしても、「誰も犯行を止められるような状況ではなかった」とは言えないはずです。それまでマスコミは「報道することが使命である」という大義名分で許されてきたことが多かったように思います。しかし、この事件によって「それだけでは許されない」ということを突き付けられたように感じました。