長沙(ちょうさ)から続く、中国との縁
二階堂進は「趣味は田中角榮」と広言してはばからなかったと伝えられる。田中角榮本人とは古くからの縁がある。佐藤榮作内閣で初入閣したあと、田中を担いで木曜クラブを旗揚げした張本人だ。
1976年のロッキード事件では「灰色高官」と名指しされたが、1980年に自民党総務会長として木曜クラブ会長となり、その後も闇将軍を支えて田中による自民党支配を強めていく。
本連載でも触れてきたように、二階堂は木曜クラブから飛び出して創政会を立ち上げた竹下登や金丸信と自民党総裁の椅子を巡って対立する。田中が脳梗塞に倒れたあと、田中が急速に求心力を失い、二階堂も総裁選の立候補を断念した。
ところが時代はここから急展開した。
首相になった竹下もまたリクルート事件で1989年6月に失脚し、日本の政界は小沢一郎や橋本龍太郎らが中心となり、政界再編時代が到来する。永田町の激しい政局の渦のなか、もはや田中も二階堂もそこで泳いでいけなかったに違いない。
1990年に田中が政界から去ったあとの96年、二階堂自身も衆議院議員選挙の出馬を断念し、政界の表舞台から去った。日中外交は、そのあと木曜クラブ出身の二階俊博や森山𥙿に引き継がれていった。
森山と中国のかかわりには古い歴史がある。もとはといえば、鹿児島市議会議員の頃からだと話した。森山が東電福島第一原発事故のときに活躍した中国湖南省長沙製の放水車のことを知ったのも、そんな長い中国との付き合いからだという。
「中国との関係のはじまりは、私が30歳を過ぎて昭和57(1982)年に鹿児島市議会議長に就任する前の年でした。鹿児島市が湖南省の長沙市と友好都市盟約を結ぶため、事前交流を始めたのです。
私の前の市議会議長と助役が向こうに行くというので、前日に議会運営委員会の委員長だった私たちと壮行会を開きました。
市内の繁華街である天文館で一杯やったそのとき、少し酔いが回ってきた議長がとつぜん『森山、おれは長沙にだけは行きたくない』と言い出すではないですか。明日にも出発しなければならないのに驚きました。
『議長、何てこと言うのですか』とご本人に聞くと、『おれは陸軍中野学校出身で、戦時中に長沙作戦に参加していたんだ。だから、向こうに行ったらもう帰ってこれん』と明かすのです」
長沙作戦(第一次)とは、日中戦争さなかの1941年9月から10月にかけて中国湖南省の長沙周辺で実行された日本陸軍による戦闘を指す。中国軍や民兵組織の抵抗によって苦戦を強いられた日本軍が毒ガス攻撃を仕掛け、200人を超える中国人捕虜を大砲の的にして虐殺したといわれる。
「長沙作戦における日本軍は相当ひどかったみたいですね。日本の軍人が中国人の服を着てなりすまし、今では語れないようないろんな工作をしていたみたい。議長はそのことを気にし、『行きたくない』と言い出す始末でした。
『もう国交回復したんだから大丈夫ですよ』と言って見送りましたが、やはりそれは議長の杞憂だったようです。
帰ってきたら議長が一席設けてくれ、『行ってよかった』と笑っていました。向こうには日本語のわかる人たちがたくさんおられ、『正直なところを話したら、昔のことだから、と水に流してくれた』とそう話していました」
そして1982年、森山が次の鹿児島市議会の議長を引き継ぎ、正式に長沙市と友好都市締結の調印にまでこぎ着けたという。
「私は平成10(1998)年に国政に移って平成19(2007)年に財務副大臣を務め、このとき長沙市人民政府が200億円あまりの借款を申し入れ、財務省もそこに同意しました。
友好都市になった頃の長沙は100年経っても鹿児島に追いつかないと思ったくらい遅れていました。けれど、そこから内陸都市として非常に発展しました。おかげで私は長沙市の栄誉市民になっています」
もっとも森山はこうもつぶやく。
「その長沙市には一昨年に訪問したきり、それが最後になりました。高市政権下の今はなかなか行けません」













