日中友好議連会長、森山𥙿という政治家
そこで中国のことを最もよく知る自民党議員の一人である森山に改めて意見を聞いた。森山は開口いちばん、日本と中国は意外な接点がある、と話し始めた。
「日本国内ではあまり知られていませんけれど、東電の福島第一原発事故があったときにも中国企業が活躍しています。メルトダウンした原子炉を冷やすため、地上60メートルの高さから放水したでしょ。もともとあの機械は湖南省の長沙にある中国の建設機械メーカーがつくり、向こうにしかなかったそうです。
中国大陸にはかつて三菱重工の組み立て工場があり、今でも工業建設機械メーカーがたくさんあります。それでああいう放射線量が高くて容易に近づけないような非常事態に、長沙の機械技術が役に立ったわけです。おかげで日本の消防庁もずいぶん助かったと思います」
東電福島第一原発事故における中国の対応でいえば、日本の水産物輸入停止問題ばかりがクローズアップされてきた。一方で、原発事故は日本だけでなく世界の重大事であり、海外の多くの政府や企業が手を差し伸べようとした。
ときの民主党の菅直人政権はあろうことか、日本の原子力発電所の機密漏れを恐れ、米軍の申し出を断ったとも伝え聞く。
事故当時は、東京消防庁が「屈折放水塔車」と呼ばれる放水車から3号機に水を投入していた光景を何度も目にした。そこに中国企業が貢献していた事実はなぜかあまり知られていない。
そんなエピソードを明かす森山は、政界きっての苦労人として知られる。鹿児島県鹿屋市出身の自民党衆議院議員だ。
地元の中学校を卒業して鹿児島県立鶴丸高校の定時制課程夜間部に通い、日新高校が発足されたあとの1965年に卒業する。19歳だった。そこから1975年に鹿児島市議会議員補欠選挙に当選、市議会議員として7期務め、1998年の参議院議員選挙に立候補して国会議員になる。
自民党では旧経世会橋本派に入り、小泉純一郎政権で財務大臣政務官を務めたあと、2004年4月の山中貞則の死去に伴って施行された区割り見直し前の衆議院総選挙区の鹿児島5区補欠選挙で、衆議院議員に鞍替えした。
自民党内屈指の財政規律派議員であり、2005年7月、郵政民営化関連法案の衆議院本会議採決で造反して反対票を投じた。造反議員という烙印を押されて無所属で出馬したこの年の9月の衆議院議員総選挙で自民党の公認の新人候補者を破り、2006年12月、自民党に復党する。
以来、自民党内で農水、国対族議員として鳴らし、総務会長や選対委員長、先の石破茂政権では党ナンバーツーの幹事長に昇りつめた。2025年10月の高市政権の誕生に伴って幹事長の役を解かれたが、多くの歴代幹事長が務めてきた「日中友好議員連盟」の会長はそのまま続けている。
周知のように高市政権では公明党が連立から離れたため、中国とのパイプが細った。いまや中国と話ができる組織は、森山の率いる日中友好議連と河野洋平が会長を務めてきた「日本国際貿易促進協会」(国貿促)ぐらいといわれる。
そのうち国防促会長の河野が2026年6月に他界し、予定していた同月の訪中が延期された。河野の死後、国貿促の会長は石破茂の側近である前外相の岩屋毅があとを継ぎ、中国との関係が深かった橋本龍太郎の次男である会長代行の橋本岳が改めて岩屋の訪中を模索してきた。
その橋本は8月末、中道改革連合広報委員会委員長の伊佐進一や公明党参議院議員の川村雄大を引き連れて訪中した。これが岩屋の年内訪中の前捌きだとされたが、三人の訪中議員の団長格だった橋本は、中国共産党の窓口である中央対外連絡部副部長と会うこともせずに帰国する。めぼしい訪中の成果はあげられずじまいだった。
公明党が連立政権から外れ、事実上、日中外交が途絶えてからおよそ1年、もう一人の中国とのつなぎ役である森山もまた、ずっと中国要人との面談を模索してきた。
対中外交は極めて複雑でセンシティブであり、森山は議連の会長になる前からそこに深くかかわってきたという。森山の選挙区は生まれ故郷の鹿児島県鹿屋市を含む鹿児島4区で、日中外交については同郷の二階堂進から直接薫陶を受けてきたとされる。
森山が二階堂との知遇を得たのは1975年から98年まで23年務めた鹿児島市議会議員の時期にあたる。すでに二階堂は木曜クラブ(田中派)の重鎮であり、田中角榮の懐刀だった。
「私自身、二階堂先生の選挙区に近いところで生まれ育っているもんですから、ずい分かわいがってもらいました。政界を勇退なさった平成8(1996)年の明くる年、二階堂先生が最後の訪中をされました。そのときのことが今も忘れられません。
日中国交正常化の立役者だった孫平化(元中日友好協会会長)さんがまだお元気な頃で、『これが最後になるから』と私も誘われ、二階堂先生に近い人たちといっしょに中国に行きました。
あのときは江沢民さんが国家主席で、釣魚台で盛大な宴を開いて迎えていただきました。そこで江沢民さんは二階堂先生に『毛沢東、周恩来、田中角榮、大平正芳、二階堂進と会談をした記録は残っているけれど、詳しい会議の内容がよくわかりません。あのときはいったいどういう合意だったんですか』と質問されたのです。私は、すごいことを聞くもんだな、と耳をそばだてていました」
二階堂進は1909(明治42)年10月に鹿児島県高山村に生まれ、旧制志布志中学を経て米国に留学して10年間当地で暮らした。米国留学時代に太平洋戦争が勃発し、大学生の二階堂はひどい排日運動を体験する。その経験が日本で政治家を目指すきっかけになったとされる。
南カリフォルニア大学大学院を卒業したあとに帰国して外務省の嘱託職員となり、終戦を迎えた。1946年の衆議院選挙に立候補して初当選し、以来、旧全県区で1回、中選挙区時代の鹿児島旧3区で15回も当選を重ねた。
佐藤榮作内閣で科学技術庁長官・北海道開発庁長官として初入閣し、そのあたりから田中角榮に仕えるようになる。1972年の田中内閣発足時には官房長官として大平らとともに訪中し、日中国交正常化を果たした。













