ベルリンの壁崩壊とバブルが変えた日本政治

「昔の1955年体制よりドラマが少なくなったから、今の政治は面白くないという人もいます。戦後の復興期を経て何十年も続いた55年体制では、たしかにもろに権力が戦い合う場が数多くありました。そこに人間ドラマが生まれる。とどのつまり政治は権力へアプローチする戦いで、それが民主主義でもあります。

日本の政界が変わったターニングポイントは 2点あります。第1点は1989年に起きたドイツのベルリンの壁の崩壊でしょう。米ソの冷戦構造が壊れ、いわゆるイデオロギーの対立軸が失われた。それによってグローバルという言葉が使われ始め、世界に新しい秩序が生まれました。ちょうどそのとき日本は自民党の海部俊樹政権が生まれました。そこで私自身、第二次海部内閣の官房副長官を拝命し、時代の変化に直面しました」

海部俊樹元首相 写真:Haruyoshi Yamaguchi/アフロ
海部俊樹元首相 写真:Haruyoshi Yamaguchi/アフロ

大島は1990年2月に発足した第二次海部内閣で内閣官房副長官に就任した。バブル崩壊前夜から日本政界を襲ったリクルート事件の影響についてこう語る。

「1988年から89年にかけて騒動になったリクルート事件のときの総理が竹下登先生でした。竹下内閣時代は昭和天皇の病状が毎日のように流され、ついに年が明けて崩御されました。このとき私は議運の末席の理事でした。

竹下先生はリクルート事件を背中に背負いながら消費税導入という大変な決断をされ、平成の世になってそれを成し遂げました。当時の竹下先生の心中までははかりかねますが、田中派をはじめとした55年体制下の凄まじい派閥間の争いを体験された。政治の活力という意味で面白い時代でした。

そうして竹下内閣の次に宇野さんが首班指名されて参議院選挙で大敗をしたあと、海部内閣が生まれました。それまでの永田町のセオリーだったら、海部内閣が生まれるわけがなく、それ自体が大きな政治の変化であったわけです。

誕生した海部内閣の課題が政治改革でした。そこからまさに政党、政策、政治の責任を明確にするため、そして日本の選挙制度そのものを変え、以後の日本の政治の形を変えていきました。成立するまで三内閣が関わりました」

リクルート事件が崩した「55年体制」

リクルートグループによる未公開株の政官財へのバラマキが発覚した1988年6月以降、自民党は55年体制時代の軸を失っていく。田中角栄や中曽根康弘の次を担うニューリーダーとして持て囃されてきた竹下登や安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄といった派閥の領袖クラスまでが未公開株を受け取っていた。

リクルート汚職は事実上の賄賂工作だと糾弾され、自民党執行部は対象者に1年間の役職停止という重い処分を下す結果となる。実際に東京地検特捜部が10月から本格捜査に乗り出し、平成の時代に入った89年6月、竹下内閣は総辞職に追い込まれた。

結果、自民党では足元の竹下派はもとより安倍派、宮澤派、中曽根派という自民党4大派閥から総裁を出すことができない。

やむなく河野(一郎)派の宇野宗佑、さらに河本派の海部俊樹に総裁のバトンが渡っていった。わけても海部は元神楽坂芸者とのスキャンダルで首相を辞任した宇野の後釜というピンチヒッターに違いなかった。

党最大派閥を率いた竹下の早大雄弁会の後輩にあたり、竹下事務所と同じビルに海部事務所があり、それが功を奏したという見方もあるほどだ。

海部は三木内閣時代に官房副長官を務めた河本派の幹部だった。前述したように大島はこの第二次海部内閣で官房副長官を務め、竹下派七奉行のトップと目された小沢一郎が自民党幹事長として内閣を支えた。ここから小沢が政界再編劇の主役を演じることになる。

海部政権を支えた小沢一郎、始まる政界再編

「私は第二次海部改造内閣で1年8ヶ月間、官邸で仕事させていただき、週に2~3回は党の小沢幹事長のところへ行って指導を仰ぎました。簡単にいえば、幹事長の怒られ役です。

国内では政治改革を迫られ、世界では湾岸戦争が勃発し、日米構造協議の真っただ中でした。そこで私自身、小沢先生に鍛えられた一人でした。大変勉強をさせていただきました。海部総理の誕生については非常に感慨深いものがあります。そこから少なくとも平成の中頃までは、小沢政局が続いていたといえるでしょう」

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大島はそう振り返った。竹下派内では海部政権に反対する動きもあり、小沢のライバルである橋本龍太郎を総裁に推す声もあった。だが、竹下派のオーナーといわれた金丸信が反対した結果、海部にお鉢が回ってきたという説もある。

本連載で書いてきたように、竹下派七奉行の橋本グループと袂を分かった小沢は、日本新党党首の細川護熙を担いで非自民の8党会派による連立政権を樹立した。細川、羽田孜と首相の顔をすげ替えながら自民党に対抗した。

だが、ほどなく自民の反撃に遭い、まさしく自民対非自民の勢力争いが激化した。

1994年6月に村山富市首相の自社さ政権が樹立されると、96年1月から自民党の橋本龍太郎が首相を射止め、98年7月の小渕恵三、2000年11月の森喜朗と首相が目まぐるしく入れ替わる。

小沢はこの間、村山の首班指名を巡って海部を自民党から離党させ、政権奪還を目指した。いうまでもなく海部は大島にとって同じ派閥の先輩議員にあたる。しかし実のところ大島の所属していた河本派は海部政権の誕生に反対した。

「村山内閣の成立したとき、海部先生が小沢先生と組んで党を割って出ました。このときすでに河本先生は病床に臥せっておられましてね。夕方の6時ごろでした。私と(河本派の)高村正彦先生が病院に呼ばれ、『高村君、君は海部さんのところへ行って、自民党から出るのをやめろと言ってこい』とベッドから命じるのです。

『海部君に電話したけれど、ぜんぜん出ない。大島君は情報を集めろ』と。私の地元でも、大島が海部といっしょに離党するんじゃないか、という話まで出ていて心配していたと聞きました。あのときの親父さん(河本)の姿を忘れられません。

政治の世界にif〈もしも〉はありませんけれど、あのとき河本先生が病床でなかったら、状況が違ったかもしれません。結局、海部先生を引き戻すことなんてできませんでした」

大島自身は90年代に環境庁長官や文部大臣・科学技術庁長官などを歴任し、小渕政権の1999年10月に衆議院の議院運営委員長に就任する。このとき自民党は小沢が旗揚げした自由党を媒介として、自自公の連立政権としてスタートした。

大島はここから自民党国対委員長を2度経験し、野党相手に「握りの大島」と呼ばれるまでの大物国対族議員として鳴らすようになる。それだけに与野党のパイプも太かった。小沢について大島はこう評す。