「一本の蝋燭たれ」――河本敏夫が大島理森に遺した政治哲学

「私は青森の田舎侍で、農業団体のリーダーだった父も地方議員をやってました。叔父が戦後に衆議院議員を6期務めていましたが、私の選挙区の代議士が三木派にいた関係もあって河本派から選挙に出ました。

とくに河本(敏夫)先生にご指導いただきました。まさに先生にお育ていただきました。『投票箱の蓋が閉まるまでが選挙だから、最後まで全力を尽くせ』というのが河本先生の持論で、『政治家は一本の蝋燭たれ』とお話されていました」

大島理森の実父は青森県議会議長を務めた大島勇太郎、衆議院議員だった夏堀源三郎は叔父にあたる。三戸郡上長苗代村(現八戸市尻内町)出身の大島本人は、慶大法学部を卒業後に毎日新聞広告部から青森県議会議員を経て国政に転じた。

中曽根康弘政権下の1983年12月、自民党河本派から総選挙に出馬して当選して以降、11期連続で衆議院の議席を守っている。党人派の元自民党代議士である。政界引退後は東京にも事務所を置き、大相撲の横綱審議委員会委員長として発言してきた。

大島の所属した河本派は、田中角栄の宿敵といわれた三木武夫が旗を掲げ、河本敏夫が三木派の議員をまとめて派閥を引き継いだ。地元の中選挙区時代、河本派の大島に対し、岸派の流れを汲む福田派の田名部匡省と大票田の八戸市を二分する熾烈な「八戸戦争」で知られる。

政治の世界における権力闘争を肝に銘じているのは、党内派閥の力学と自らの政治信条を貫く難しさを肌で感じてきたせいかもしれない。

大島は衆議院議員1回生時代の85年6月、「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」が議員立法によって国会に提出されると、そこに異を唱えた。通称、「スパイ防止法案」は、日米安保改正を実現した岸信介政権時代から統一教会やその傘下の国際勝共連合のバックアップもあって法制化を悲願としてきた。

大島たちハト派の自民党議員はそこに危機感を抱いて反対した。スパイ防止法の是非を巡る議論は今なお続いており、のちの個人情報保護法や特定機密保護法、さらには今度の国家情報局設置などの審議もその延長線にあると言っていい。

1972年、河本敏夫氏 写真:ZUMA Press/アフロ
1972年、河本敏夫氏 写真:ZUMA Press/アフロ

極端な右傾化を嫌う大島が、師と仰ぐ政治家が河本敏夫である。河本は1911年6月兵庫県赤穂郡相生村(現:相生市)に生まれた。

衆議院議員を連続17期務め、沖縄開発庁長官や経済企画庁長官、通産大臣や郵政大臣を歴任した重鎮であり、終戦後の自民党で総裁の座を争ってきた「三角大福中」に次ぐ党の実力者であった。

政界入りする前には海運大手「三光汽船」のオーナー社長という顔を持ち、河本は自ら所属する三木派の政治資金を支えてきたといわれる。河本に心酔してきた大島は今も都内にあるオフィスに河本の写真を飾っている。

「河本先生は自由主義者で、出身校の旧制姫路高校時代に反戦論をぶってクビになった逸話も残っています。そのためにずい分苦労された。様々な仕事をしながら、ある議員先生のところに寄宿して日大(法文学部)に入ったといいます。

その大学時代に義理のお兄さんと三光汽船を創業したのですが、三井にしろ、三菱にしろ、もともと大手の船舶会社はときの権力と強く結びついていました。けれど三光汽船は違います。河本先生の根底には、一種の反権力的な自由競争経済が基本だという思いがありました」

その三光汽船は第二次石油ショック後の海運不況により1985年7月、会社更生法の適用を申請し、戦後最大の倒産と騒がれた。大島が在りし日の恩師の姿を思い起こす。

「河本先生は三光汽船倒産のときも弁解がましいことなどいっさい言わず、『関係者に迷惑をかけた』と言って沖縄開発庁長官をスパッとやめ、責任をとりました。立派な政界のリーダーはみなそうですが、言い訳を聞いたことがない。そういう方でした。

だから保守本流とは少し距離を置いてきたのでしょう。私は直接その場面にいたことはありませんけれど、自民党は(1978年12月に誕生した)大平正芳内閣で、田中・大平対福田・三木で分裂した。そのとき新党結成の話が持ちあがったそうです。

で、大平先生が『河本さんだけは自民党に残ってほしい』とおっしゃったとか、田中角栄先生から『河本は自由経済のなかで生きた男だから経済がわかる』と引き止められたとか、いろいろなエピソードを教えてくれる人もいました」

田中角栄が1976年に浮上したロッキード事件に塗れ、田中を追及してきた三木武夫が後継首相に座る。このとき自民党内では、相変わらず闇将軍と恐れられて最大派閥を率いた田中角栄と親米派のタカ派路線を進んだ福田赳夫の派閥の対立が表面化した。

田中政権時代、外相として日中国交回復を成し遂げ、田中派のバックアップを得て首相に就いた大平はとうぜん田中に与し、ロッキード事件を追及してきた三木は反田中陣営の福田派に味方したとされる。

そもそも河本と三木とは、三木の娘婿の兄弟と河本の娘が結婚していた遠縁関係にあり、三光汽船のオーナーである河本は三木派のスポンサーと呼ばれてきた。それだけに田中や大平は河本を援軍につけようと、誘いをかけたのかもしれない。

一方で、福田陣営には中曽根康弘や中川一郎などが合流し、三木派を引き入れて新党を結成する動きまで見せたというのである。だが、結局のところ河本が動かずに新党話は立ち消えになった。

自民党内が文字どおり真っ二つに割れそうになったその1980年代からおよそ10年のときを経て、本格的な政界再編劇の幕があく。対外的には日米が貿易収支を巡る経済摩擦で揉め、米ソの東西冷戦が終わった。日本国内では90年代に入ってバブル経済が崩壊する。と同時に、政治の世界も変化を大きな迫られた。大島がそんな時代を読み解く。