マイケルは「カッティング・エッジ」という言葉を繰り返し口にした

―小室さんはマイケル・ジャクソンと親交があり、楽曲制作を依頼されたこともあったそうですね。それはいつ頃の話だったんですか?

小室 最初に会ったのは1997年です。すべての始まりはパリでした。当時、マイケルは「ヒストリー・ワールド・ツアー」(1996~97年にかけて、世界35か国・58都市で82公演)でヨーロッパを回っている最中でした。

ところが、そのタイミングで英国王室のダイアナ妃が交通事故で亡くなってしまったんです。マイケルは彼女と親交が深かったらしく、その死に大きなショックを受けてツアーを一時中断し、彼女が亡くなった地であるパリに滞在していたわけです。

そのとき、僕もたまたまパリにいました。なぜいたのかははっきり覚えていないのですが、おそらく1998年のワールドカップ・フランス大会で演奏する機会をいただいていたので、その打ち合わせやリハーサルのためだったと思います。

―当時、小室さんはロサンゼルスに活動拠点を移していましたよね。

小室 ええ。あの頃の僕は海外進出を視野に入れていて、バックストリート・ボーイズのアジア版の楽曲(「Missing You」。97年のアルバム『バックストリーツ・バック』日本盤収録)や、ブラックミュージック(Sister Kほか)への楽曲提供など、数は多くありませんが、少しずつ実績を積み重ねている最中でした。

その活動を支援してくれていたのが、ショービジネス専門の弁護士ジョン・ブランカ(映画『Michael/マイケル』にも登場)でした。彼はマイケルの顧問弁護士も担当していた方で、「マイケルが今、パリにいるよ」と僕に教えてくれたんです。

それ以降は記憶が曖昧ですね。僕がブランカに「マイケルがパリにいるなら会えない?」と頼んだのかもしれないし、あるいはマイケルのほうが「アジアのトッププロデューサーがいるなら会いたい」と言ってくれたのかもしれない。

ブランカとしても、僕とマイケルを会わせれば何かしらのケミストリーが生まれると考えていたでしょうし。ともあれ、僕はブランカの手引きで、マイケルが滞在するホテルの一室を訪ねることになりました。

マイケル・ジャクソンに楽曲制作を依頼された日––––小室哲哉が語るネバーランドの記憶_1
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―初めて会ったマイケルの印象は?

小室 イメージ通りでしたね。身長はそれほど高くなく、とても華奢な体つき。ミュージックビデオで見る姿とほとんど同じ印象でした。あえて言うなら、映画『THIS IS IT』(2009年)の中で、彼の素が垣間見えるシーンがいくつか出てきましたよね。映画の中でもマイケルの話す声は小さめでしたが、実際に会った彼も少し小さな声で優しく喋しゃべる方でした。

会話の内容自体は、それほど深い話はしていないんです。初対面ですし、英語のニュアンスも含めて、お互いどの程度話が通じるのかを探りながらの会合でした。とはいえ、彼は世界的なスーパースターで、常に億単位のセールスを記録している存在です。僕としては言葉を交わせただけで満足でした。

ところが会話の流れで、マイケルがこう言い出したんです。「君は今カリフォルニアに住んでいるんでしょ? だったら、サンタバーバラにある僕の自宅に来ない? 君の〝音〟を聴かせてくれないか?」と。それで連絡先――当時はスマートフォンのない時代なので、お互いの自宅の電話番号を交換することになりました。

それで年が明けた98年に、マイケルの自宅に伺うことになりました。みなさんもご存じの邸宅「ネバーランド・ランチ」、通称ネバーランドです。

―ネバーランドはどんな場所でしたか? マイケルの自宅兼プライベート遊園地で、面積は約2700エーカー(東京ドームの約235個分)もあったと言われています。

小室 記憶に残っているのは、まずその距離感ですね。僕らは同じカリフォルニア州に住んでいましたが、マイケルのいるサンタバーバラまではかなり離れていて、車で2、3時間はかかりました。感覚的には東京から名古屋や大阪に行くような距離です。遠かったですね。

それで現地に到着したわけですが、ネバーランドは巨大な邸宅という印象でした。当然、誰もが自由に出入りできる場所ではなく、入り口には警備員がいて厳重に管理されていました。

中に入るにはアグリーメント(契約書)にサインする必要があって、その内容がユニークなんです。「ここで見聞きしたことはすべて〝あなたの夢の中での出来事〟として扱われる」といった内容の不思議なルールが書かれていました。それにサインして、ようやく入ることができました。

―なるほど。ここからネバーランドでのマイケルとの思い出を伺おうと思っていたのですが、その話をすると契約違反になってしまう?

小室 いや、話してもいいんですが、その内容は「僕が見た夢」ということになるかもしれない(笑)。それは冗談ですが、実際に現場で起きたこと、その体験についてはお話しさせていただきます。

―ありがとうございます。お二人はどんなコミュニケーションをされたのでしょうか?

小室 音楽の話をしたり、一緒に音楽を聴いたりしました。ネバーランドの中には豪華なスタジオがあって、いわゆる制作スタジオというよりは、鏡張りでダンスもできる大きなオーディオルームといった感じです。スピーカーやアンプなど、リスニング環境は相当充実していましたね。

そのとき、僕はマイケルのために作ったデモテープを持参していました。「君のために用意したんだ」と伝え、それを二人で聴きながら意見を交換した記憶があります。

―マイケルの反応はいかがでしたか?

小室 『THIS IS IT』の中の彼と同じように、少しピリッとした緊張感のあるオーラを纏まといつつ、頭の中は音楽のことでいっぱい、という感じでした。そのとき彼はいろいろなアイデアを披露してくれたのですが、その伝え方がとても印象的でしたね。

彼は曲のアイデアを伝える際、楽器を一切使わないんです。すべて口と体で表現する。アカペラでメロディやビートを歌い、リズムは胸など体の一部を叩いたり、足踏みで音を鳴らしながら伝える。それだけで、かなり具体的にイメージが伝わってきました。

―小室さんからすれば、「こういうコード進行だな」とわかるくらいに?

小室 ええ。少なくとも歌とグルーヴの構造はわかりました。マイケルの頭の中には、やりたいことがすでに完成形として存在していたんです。ただ、それを実際の楽曲制作に落とし込むのは大変だろうな、とも感じました。

そのやり取りの中で、彼が繰り返し使っていた言葉が「カッティング・エッジ」でした。直訳すれば「刃の先」ですが、「最先端」や「過激」といったニュアンスを含む言葉です。これまでの自分の枠を超えた新しいサウンドを作りたいという、明確な意志を感じました。

そこで僕が連想したのが、当時台頭し始めていた「デジロック」(デジタルロック)というサウンドです。具体的にはケミカル・ブラザーズやプロディジーのような音ですね。同時にこの時代は、グランジ以降のオルタナティブ・ロックがシーンを席巻していた。そうしたエッジの効いた先鋭的なサウンドにマイケルは強く惹かれていたのかもしれないと思いました。

―つまり、デジタルのビートにロックの要素を取り入れたいと?

小室 そう感じましたね。「デジロック」という言葉自体は日本特有のものかもしれませんが、方向性としてはまさにそれで、そのニュアンスが「カッティング・エッジ」という一言に集約されていた印象です。

―そのやり取りは録音・録画されていたりしたのでしょうか?

小室 残念ながら残っていません。当時はスマートフォンのようなツールが手元になく、その場で簡単にレコーディングすることが難しかったので。録音するなら、レコーディング機材のひとつひとつの電源を入れて、マイクを立てて……といった準備が必要でした。

今なら「ちょっと弾いてみて」「じゃあ歌ってみよう」といったやり取りを、その場でスマホを使って録音していたでしょう。あの光景を記録できなかったのは、大変もったいないというか、個人的なアーカイブとして残せていないのは残念です。

取材・文=尾谷幸憲

(集英社クオータリー『kotoba』2026年夏号より一部抜粋)

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