「推しなき者」のコンプレックスと実害
ただ、こうして振り返ってみると、僕には「推し社会がしんどい」以前の問題として、
・「周囲のみんなが興味を持つものに興味を示すことができない」
・「なにかを好きになり応援したいと思うファン心理というものが完全に欠落している」
・「みんながイイというものをイイと感じる他者の感性や、他者の持つファン心理なども全く理解できない」
といった特性(?)があることが、否応なく自覚されてくる。
こうなると、ものすごい勢いで頭の中に湧いてくるのは、数々の疑問だ。
僕はみんなが面白いと言っていたあのコンテンツのどこがどうして面白く感じなかったのか?
そう感じるルーツは、生来の感性にあるのか、何らかの経験から来るものなのか?
そもそもこれはASDなどの発達特性と無関係なのか?
僕がその孤立感から「面白く感じていないものを面白いと言ったり迎合すること」、いわゆる過剰適応すらやろうとして来なかったのはなぜか?
そしてやはり、僕同様に推し無き者、みんなの面白いというコンテンツを面白く思えない者、ファン心理というものが全く理解できない者は、どれほど世の中に存在して、みんなどのように生きてきて、この推し全肯定の現代をどのように過ごしているのか?
矢継ぎ早に疑問が立ち上がるのは、なんだかんだ言って僕にとってこの「推し無き」「みんなと同じっぽくない」が子ども時代からのコンプレックスであって、いまでも多少引きずっていて、人生の要所要所でそれに伴う実害もあり(実は超ある)、かつ自身でもこれまで一切掘り下げてこなかったからだと思う。
果たして、この感覚に共感してもらえるなんてこと、あるのだろうか?
この暮れの差し迫ったタイミングでこんなネガティブ全開な寄稿もどうなのかと思う。推しという文化文脈のルーツに、マイノリティだった者が初めて挙げた声であったり初めて感じた熱い思いだったりという側面があることも理解している。
が、どうやら今回のアレをみる限り、世の中の推し全肯定な文化は今後も続きそうだし、僕のような推しがない、推せない者のしんどさは、拡大し続けるだろう。
ということで次回より、この推し無きファン心理なき僕が世界と世代のカルチャーをどのように感じてきたのか、この年齢に至るまでそれが人生にどのようにネガティブに作用してきたのか、さらに僕以外の「推し無き者」「ファン心理ってやつがミリもわからん」勢が存在するならどんな体験をしていて、その感覚は僕も共有できるものなのか、こんな戯言を聞いて「推しある勢」はどのように思うのか? そんなテーマを、時代に逆行してゴリゴリ掘り下げてみたいと思う。このしんどさを掘り下げることは、新しいマイノリティ論の提起にもならないかと期待する。
文/鈴木大介
※「よみタイ」2025年12月30日配信記事














