繰り返し書かれた「母の不貞」

「火の記憶」は、母の不貞の物語である。天涯孤独の身である泰雄という青年が結婚し、自身の両親についての秘密を新妻に話し出す。

泰雄は子供の頃、父親ではない男と母と三人で、闇の中で火が燃えている景色を見た記憶を持っている。男はしばしば家にも出入りしており、その時に父は家にいなかった。

ある時、ひょんなことからわかったのは、闇の中の火を見た時に一緒にいたのは、筑豊に住む河田という男だということ。泰雄の記憶に残っていたのは、筑豊のボタ山で燃える火だった。

ボタ山(PhotoAC)
ボタ山(PhotoAC)

河田と母が不倫関係にあったため、父は行方をくらませたのではないか、と泰雄は思う。しかし新妻の兄の考えは、違った。

かつて警察に勤めていた、河田。泰雄の家にしょっちゅう顔を出していたのは、何らかの罪を犯して姿をくらましていた泰雄の父の様子を探るための、張込みだったに違いない。泰雄の母は、夫を救うために河田に「体当たり」をして関係を持ち、そのことがばれて河田は筑豊へ。その後も関係が切れずに、母は泰雄をつれて筑豊へ行き、その時に見たのがボタ山の火ではないか……と推理するのだ。

小説としての出来が特に良いわけではない、この物語。しかし「少年の記憶の中にある母の不貞」というモチーフは、その後の清張の小説の中でも何度か見られるものであり、この小説はそれらの小説群の端緒となっている。

「少年の記憶の中にある母の不貞」を描く作品の中でも名作として知られるのは、昭和34年(1959)に書かれた短編「天城越え」であろう。

舞台は大正末の、伊豆・天城山。下田に住む十六歳の少年が、母親から叱られて家を飛び出し、静岡に向けて歩いていた。伊豆半島中央部にそびえる天城山のトンネルを抜けると、他の国に来たかのようで、少年は急に心細くなる。結局、静岡に行く意欲を失って下田に戻ろうとした時、少年は美しい女と道連れになった。

女と少年はしばらく一緒に歩いたが、流れ者の土工の姿を認めると、少年と別れて土工の方へと行ってしまった女。少年はつまらない気持ちになって、一人で歩き出した。

土工はしばらくして、他殺死体となって発見される。女が容疑者となって逮捕されるも、証拠が揃わず無罪に。一体、犯人は誰なのか……?

天城トンネル(PhotoAC)
天城トンネル(PhotoAC)

時は流れて、30数年後。「刑事捜査参考資料」という本の印刷を警察から頼まれた静岡の印刷業者が、その本を見て衝撃を受けていた。印刷業の男こそ、30数年前に16歳だった少年。本には、あの土工殺し事件についても書かれていたのだ。

犯人逮捕に至らなかったその事件は、既に時効になっていた。本の印刷を頼んだのは、当時事件を担当していた老刑事。本を引き取りに来た刑事と元少年は、事件について話し始めるのだが、老刑事は土工を殺した犯人が元少年であることを確信している。

しかし老刑事がどうしてもわからなかったのは、少年の動機である。なぜ少年は、土工を殺さなくてはならなかったのか。

あの時の美しい女は、修善寺の娼婦だった。金に困っていた女は、ゆきずりの土工に、商売をもちかけた。合意した二人は、藪の中で事に至り、女の後を追ってきた少年は、その様子を目撃する。

そこで少年の脳裏に浮かんだのは、母の姿である。彼が小さかった頃、父ではない男と母親が同じような行為をしていたのを、彼は見たことがあった。そして少年は、「自分の女が土工に奪われたような」気持ちになって、土工を殺したのだ。