わが道を行きすぎる!
柳田理科雄と出会ったのは、鹿児島市の中学校の入学初日だった。柳田は、最初から異彩を放っていた。体が大きく、そっくり返るほど胸を張っている。自己紹介では、低音を響かせながら「種子島から来た柳田理科雄です!!」と大声を出した。担任の教師は「なんだその話し方は!」と叱ったが、それが柳田の普段の話し方だった。
学校生活が始まると、柳田は「学年生徒会長」に立候補した(1学年が20クラスもある学校で、学年ごとに生徒会長がいたのだ)。校内に「柳田理科雄をヨロシク」と手描きしたポスターを貼りまくり、休み時間には「理科雄」と書いたタスキをかけて廊下を練り歩き、校庭で遊ぶ人々に握手を求め、みごとに当選した。種子島はその中学の学区外で、小学校からの友人は一人もいなかったのだから、これは快挙だろう。
生徒会長になっても柳田は、優等生にはならなかった。休み時間に大声で歌を歌い、教室で相撲を取って備品を壊し、生徒会室のガリ版で種子島をアピールする新聞を刷って配った(これは職員会議で問題になった)。
まんがやアニメにはさほど興味がなさそうだったが、『マジンガーZ』の兜博士や『科学忍者隊ガッチャマン』の南部博士は尊敬していると言い、「みんな、もっと科学者を称えるべきだ!」と主張した。女子は遠巻きにしていたが、男子には人気があった。
はるか昭和の昔の話とはいえ、型破りである。周囲の目を気にすることなく、人気のアイドルやテレビ番組などには目もくれず、わが道を行く。自信に満ちて、場の空気は読まない。最近の例にたとえるなら、『成瀬は天下を取りに行く』の成瀬あかりのような、際立ったキャラであった。
僕は、そんな柳田とは対照的な地味系だったが、なぜかウマが合った。学校で毎日会っているのに、ときどき柳田から手紙が届いた。「英単語を覚えながら下校した」などと書いてある。「なんだこれ?」と不思議に思い、数日経って返事を送ると、すぐに手紙が来て「信号機を指さして歩くおじさんがいた」。
頭をひねりつつ返事を書くと、またすぐ来る。内容は変だし、異様に早いので、その理由を聞くと「心の向くままに、悩まず書けば、そうなる」と答えた。それはそうかもしれないが、わざわざ手紙にする必要はあったのか。
また、あるとき僕が「まんがの同人誌を作ってみたい」と言うと、柳田は即座にペンと墨汁を買い、宇宙冒険マンガを描いて持ってきた。柳田にまんがを描いた経験はなく、ほとんど読んでもいなかったから、これには驚いた。その作品は、既存のまんがの影響がぜんぜんなく、とても新鮮に感じられた。
柳田はそんなキャラのまま、すくすくと生きていった。高校で応援団長を務めて青春を謳歌すると、京都大学を受験した。進路指導の教師には「その成績ではムリだ」と止められたらしいが、聞く耳を持たなかった。
しかも「試験の手応えはあった。必ず合格する」と宣言して、発表の前に京都にアパートを借りた。結果は不合格。柳田は「次は東大を受ける」と言いながら、仕方なく京都で浪人生活を送った。