小林繁の証言に自伝との食い違い

―では、中溝さんにとって「名著」と呼べる野球ノンフィクションとは?

中溝 最初に思い浮かんだのは、近藤唯之さんの『引退 そのドラマ』(新潮社 86年)です。小学3年の夏に父が買ってくれて何度も読み返しました。

『引退 そのドラマ』
近藤唯之 
新潮社 1986年
『引退 そのドラマ』
近藤唯之 
新潮社 1986年

―長嶋茂雄、田淵幸一、江本孟紀ら名選手たちの引退ドラマを描いた作品ですね。

中溝 本に登場する約40人の現役時代はリアルタイムで見ていませんが、「男の運命なんて一寸先はどうなるかわからない」といった、情念たっぷりの〝近藤節〟には引き込まれました。そのベタな人間ドラマがたまらなくて、プロ野球という〝大河ドラマ〟にハマるきっかけになった一冊です。

―近藤節には根強いファンが多いですよね。

中溝 ぼくもそのひとりですが、時々、ちょっと盛りすぎるところがあって(笑)。他の資料と照らし合わせると、「あれ? ここ盛ってる?」と思うところもあります。『引退』でいえば、45歳の野村克也が自分に代打を出され、ベンチからその選手を見ながら「失敗してしまえ」と願った瞬間、己のセコさに絶望し、「精神的にオレは終わった」と引退を決めた、というエピソード。

野村さんを知ってる人なら、「いやいや、ちょっと盛ってるでしょ!」と思わず突っ込みたくなる(笑)。でも、これだけ鮮やかに書ききってくれると、それも含めて面白いと思えるんですよね。近藤さんの作品には活字プロレス的なエンタメの魅力が詰まっていると思います。

田崎 中溝さんにとってはそこが野球ノンフィクションの入り口だったから、選手の過去の報道やコメントの面白い部分をつなぎ合わせるというスタイルにつながったのかもしれませんね。

中溝 プロ野球選手の生き様をサラリーマン社会と重ねたり、活字野球ならではのウェットな魅力を描く面白さは、この『引退』で学びました。ただ、報道資料をベースにした野球ノンフィクションの手法は、矢崎良一さんの『元・巨人 ジャイアンツを去るということ』(廣済堂出版 99年)がきっかけになっています。

『元・巨人 ジャイアンツを去るということ』
矢崎良一 
廣済堂出版 1999年
『元・巨人 ジャイアンツを去るということ』
矢崎良一 
廣済堂出版 1999年

その冒頭に小林繁さんの章があるのですが、彼が83年に引退した直後に刊行した自伝『男はいつも淋しいヒーロー』とはかなり証言が食い違っているんです。

『元・巨人』では約15年という長い年月が経過して、本人が「当時の心境はもう話したくない」と自重するようになったのか、あるいは時間の経過とともに記憶がすり替わったのか、意図的に塗り替えたのか……。

いずれにせよ、時間の流れによって証言の信ぴょう性が変わってしまうことを実感し、ぼくの『巨人軍vs.落合博満』では、当時の報道やコメントのみで構成するという手法を採りました。