レコーディング契約を交わした10日後の衝撃コンサート 

ボブ・ディランの初コンサートが行われたのは、1961年の11月4日。場所はニューヨークのマンハッタン7番街と57丁目の一角を占めるカーネギー・ホールだった。

ただし、カーネギー・ホールといっても、音楽の殿堂として知られている大ホールではなく、リハーサルルームの一つ、チャプター・ホールが会場だった。

そして、客席100のホールには、53人の客しか入っていなかったとも言われる。だが、ディランは会場に客が少ないことで気落ちするようなことはなかった。

カーネギー・ホール(写真/Shutterstock)
カーネギー・ホール(写真/Shutterstock)
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なぜならその10日前、レコード会社との間で正式にレコーディング契約を交わしたからだ。

そのニュースがニューヨーク中のフォーク・シンガーたちの間に広まると、誰しもが嫉妬を通り越して、歓喜の声をあげるようになったという。

グリニッジ・ヴィレッジのコーヒーハウスやクラブで歌っていた若い世代の男性フォーク・シンガーたちの中で、最初のレコーディング・アーティストが誕生しただけにとどまらず、契約相手はメジャーのCOLUMBIA(コロムビア)だったのだ。

しかもディランを見出したのがコロムビアの実力者で、伝説のプロデューサーと言われるジョン・ハモンドである。

ハモンドの祖父は、南北戦争で活躍したジョン・ヘンリー・ハモンド将軍であり、母方の祖父は海運や鉄道で財閥を築き上げた大富豪のヴァンダービルト家の出身だ。

名家の長男として生まれたハモンドは、ハーレムで聴いたビリー・ホリデイをベニー・グッドマンとの共演でレコーディング・デビューさせた。また、カウント・ベイシー楽団をカンザスシティのラジオ放送で聴き、彼らをニューヨークに招いて全国的な注目を集めることに成功した。

人種差別を告発する曲『奇妙な果実』を歌い続けたことで、長年FBIに追い続けられていたこともある、伝説的ジャズシンガーのビリー・ホリデイ。写真は『ラヴァー・マン [SHM-CD]』(2022年10月19日発売、UNIVERSAL MUSIC)のジャケット写真
人種差別を告発する曲『奇妙な果実』を歌い続けたことで、長年FBIに追い続けられていたこともある、伝説的ジャズシンガーのビリー・ホリデイ。写真は『ラヴァー・マン [SHM-CD]』(2022年10月19日発売、UNIVERSAL MUSIC)のジャケット写真

戦前はこうしてジャズ界を中心に活躍したハモンドだったが、1950年代後半にはピート・シーガーとババトゥンデ・オラトゥンジと契約し、当時18歳のゴスペル・シンガーだったアレサ・フランクリンも発掘している。

コロムビアでハモンドが手掛けるのであるならば、ディランの成功は約束されているかのように見えたかもしれない。