みんな、どれだけ失踪者が好きなんだよ

当初、吾妻は、失踪中の話は悲惨なことも多いから、猫を主人公にして描こうと考えていたが、話を聞いた漫画家のとり・みきが、「吾妻さん自身が主人公のほうが絶対に面白い」と言い、現行の形になったという。

それでも『失踪日記』並びにそれ以降の日記物や回想録の類も、すべてはリアルでありながら、どこか他人事の距離感とユーモアがあり、周囲の光景や人物には幻想表現が色濃い。

つげ義春の「無能」も、いじけの一種でそこはかとないユーモアがあったが、吾妻のそれはもっと明確にユーモラスだ。

『つげ義春コレクション 近所の景色/無能の人』(ちくま文庫、2009年)
『つげ義春コレクション 近所の景色/無能の人』(ちくま文庫、2009年)

かつて橋本治は「いじける」は受動態の「いじけ」とは違って能動的態度だとし〈「いじける」――自らの意思をもって無気力を装い、そのことによって生ずる自と他の落差を楽しみ、笑うこと。一般に美しいこととはされない〉(「全面肯定としての笑い」)と規定したが、吾妻は「いじける」に関して誰よりも能動的だった。

そして〝美しい〞レベルへ、さらには尊厳ある「いじける」にまで到達した。

『失踪日記』は第34回日本漫画家協会賞大賞、平成17年度文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、第10回手塚治虫文化賞マンガ大賞、第37回日本SF大会星雲賞ノンフィクション部門、アングレーム国際漫画祭公式セレクション、ニューヨーク・マガジン2008年文化賞グラフィックノベルズ部門1位、グラン・グイニージ賞などを受賞している。みんな、どれだけ失踪者が好きなんだよ。

国内の漫画賞の授賞式では、旧知の漫画家たちも若手の吾妻ファンたちも温かく迎え、「失踪したい時もあるよね」な雰囲気だったという。

『失踪日記』出版時のインタビューでは「仕事は来ないし、限界だし、自分を苦しめるだけなので、ギャグマンガをやめる」と述べ、その後は『うつうつひでお日記』や『逃亡日記』など、日記や回想録のようなものがほとんどとなった。

しかしそれらの随所にユーモラスな表現がちりばめられており、けっきょくは漫画もギャグも好きなのだなとファンを喜ばせた。

そもそも日本漫画家協会賞の授賞式では〈失踪しないようにがんばります〉、文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞時には〈ホームレスはけっこう楽しいです〉と挨拶してウケを取った。

路上生活のイメージ
路上生活のイメージ
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こうした挨拶は、アドリブが利かないので、あらかじめ漫画の創作時と同じようにネタを作っておくのだという。

つげ義春がしばしば否定形を取りながら強調した芸術漫画家としてのプライドや自らの表現へのこだわりは、吾妻ひでおにおいてはずっと軽く(〝軽々しく〞といってもいい)、揶揄かパロディとして描かれるのが常だ。

他の漫画家たちの作品に登場する美少女キャラクターを、自己流にアレンジしつつどんどん模写してみせる吾妻は、オリジナリティーの呪縛に囚われず、そもそも漫画表現は集合的理解に基づく記号であることを突きつける。

しかもその突きつけ方は、あくまでやわらかく無邪気で、子どもが好きな漫画を模写するのと変わらない。「〇〇センセイの絵、ここのところが難しいんだよねー」と楽しげに。それは絵を描く者なら誰もが憧れる、〝子どもが描いたような絵〞の完全形ではないか。

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文/長山靖生 写真/Shutterstock

漫画のカリスマ
長山靖生
漫画のカリスマ
2024/9/19
1,034円(税込)
288ページ
ISBN: 978-4334104245

反権力、革命、周縁、無能、彷徨
ロリコン、失踪、二次元、SF、異世界、神話……

4人を通じて読み解く
「日本の精神史」


◎内容


4人の漫画家、白土三平、つげ義春、吾妻ひでお、諸星大二郎。
いずれも個性的な作品を描き続け、今も熱狂的なファンを持つ。
あらゆる表現ジャンルと同様、最尖鋭の表現は、必ずしも売れる作品とはならず、
マニアックなものにとどまるケースも多い。
だが時代を経ても色あせない「漫画のカリスマ」ともいうべき表現者たちは、
後続の漫画家(志望者)たちを惹きつけ、畏敬され、
その遺伝子が次世代のポピュラーな表現を形作っていく。

全共闘・全学連世代の青年層に支持され思想的な影響力を持った
白土やつげが活躍した漫画雑誌は『ガロ』。
一方、トキワ荘グループの一世代後の吾妻や諸星は、
雑誌『COM』周辺から世に出、’70~’80年代の若者に支持され、
今日のオタク文化の主体を形作った。

彼らはどんな方法で時代を摑み取り、本質を抉る表現に到達したのか。
その作品はどう社会を動かし、変えたのか。
4人の作品と生涯を通し、
昭和戦後から現在に至る日本の精神史を読み解く。

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◎目次

はじめに――神様とカリスマ

第一章 白土三平――革命願望と権力の神話

第二章 つげ義春――実存と彷徨と猥雑と生活

第三章 吾妻ひでお――リアルと幻想に境界はあるのか

第四章 諸星大二郎――夢の侵犯、神話の復讐

第五章 エンタメでの自己表現の困難と、未来の漫画

おわりに



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