人類の幸福のために活動した

1985年の亡命以来、サッチャーとレーガンはゴルバチョフに繰り返し依頼している。ゴルジエフスキーの家族を出国させるようにと。ただ、そのたびに拒否された。ゴルバチョフがどれほど英米との関係を重視しようとも、国内秘密情報機関からの抵抗が大きかった。KGBを裏切り、死刑判決まで受けた者への配慮は不可能だった。

ロナルド・レーガン 第40代アメリカ合衆国大統領
ロナルド・レーガン 第40代アメリカ合衆国大統領
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ソ連崩壊直前の1991年9月、家族は解放されロンドンで合流した。

「2人の娘はとても優秀で、オックスフォード大学に通っていたんだよ」

ゴルジエフスキーの表情が緩んだ。

「しかし、彼女たちとはうまくいきませんでした。その後、姿を消してしまった」

「ロシアに帰ったんですか」

「うーん、どこに行ったんだろう?」

「火星」で活動した(※ロシア国内のKGBで外国人のスパイが活動する難しさを、火星にスパイを派遣する難しさのようだと例えている)伝説のスパイは悲しそうな表情になった。スパイとて人間である。

「ロシアに帰りたいと思いませんか」

「民主的な政権が誕生し、指導者を恐れなくても生きていけるようになれば、帰るかもしれません。生まれた国だからね。ただ、現時点ではその見込みはゼロです。ロシアは民主化とは逆方向に進んでいる。かつてのファシズムのようだ」

家族を失っても、亡命への後悔はないのだろうか。

「なぜ、後悔する必要があるのですか。個人的利益ではなく、人類の幸福のために活動したんですよ」

きっと後悔はできなかったのだろう。人生を自ら否定するわけにはいかない。

ゴルジエフスキーは2007年、「英国の安全への貢献」が認められ、エリザベス女王から聖マイケル・聖ジョージ勲章(CMG)を授与された。

KGBに反逆したゴルジエフスキーはその結果、家族を失った。そして、同じくFSBに逆らったリトビネンコは命を落とした。残されたマリーナはゴルジエフスキーらの協力を得て、「人類の幸福」のために闘いを挑んでいる。

樹木に覆われた家を出ると、日はすっかり傾いていた。鳥が騒がしかった。ロンドンへの道すがら、国家権力と個人の関係を考えずにいられなかった。

写真/shutterstock

プーチンに勝った主婦 マリーナ・リトビネンコの闘いの記録
小倉孝保
プーチンに勝った主婦 マリーナ・リトビネンコの闘いの記録
2024年12月17日発売
1,430円(税込)
新書判/352ページ
ISBN: 978-4-08-721341-6

夫アレクサンドル・リトビネンコは放射性物質によってプーチンに暗殺されたのか? 
その真相を明らかにするため、妻マリーナは立ち上がった。
この動きを妨害する英国、ロシアという大国の壁を乗り越え、主婦がプーチンに挑み勝利するまでの過程を、マリーナと親交がある著者が克明に描き出す。
同時に、ウクライナ侵攻に踏み切ったプーチンの特殊な思考回路や性格、そのロシアとの外交に失敗した国際政治の舞台裏、さらに国家に戦いを挑んだ個人の姿と夫婦の愛を描く、構想12年の大作ノンフィクション!

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