工芸が「道」となるとき

これまでなかったやり方も含めて、工芸の魅力や価値に広く親しんでもらうためには、工芸の魅力や価値を言葉にしていく重要性も感じている。職人さんたちの言葉には、僕たちをハッとさせる学びの多いものがある一方、自らつくったモノの価値を説明する言葉はけして多くはない。

これは工芸の生まれ方とも関わっていると思う。例えば現代アートの多くは「Why/How/What」の順で作られるように感じる。まずコンセプトがあり、それを実現する意匠や造形が生まれると、これに適う素材・技法を考えるという流れだ。

対して工芸は、まず素材と向き合い、素材からものづくりを考え、そのなかで個々の思想を育んできたのではないか。これは茨城県陶芸美術館の金子賢治館長が言う「工芸的造形」の考え方にも通じる。

もちろん、どちらが優れているかという話ではない。「頭でつくるモノ」と「手でつくるモノ」、あるいは「演繹(えんえき)的アプローチ」と「帰納(きのう)的アプローチ」の違いとも言えるが、工芸における造形プロセスは後者だろう。

素材の声を聞きながら造形する必要があるため、結果、カタチと素材の性質が一致した美しいモノになる。そして、だからこそ工芸の価値を伝える言葉や理論は、それを近くで見守る人たちの役割も大きいのではないだろうか。例えば、柳宗悦が「民藝」の価値を説いたように。あるいは、茶の湯や生花が日本を代表する文化として世界で認められる存在となった理由は、ひとつには千利休や池坊が「道」にまで大成させたことにあるだろう。

もし工芸が「道」の概念にまで高まるような動きが生まれるなら、さらなる評価や広がりにつながるのではないだろうか。その「道」は既に職人さんたちのなかに息づいていると同時に、誰かが一朝一夕に唱えられるものでもないと思う。

しかし、工芸を楽しむ人々の輪を広げるためにも、言葉の役割は大きいと感じる。サッカーや野球を楽しむのにも最低限のルールを知る必要があるように、工芸品に宿る美の気配を感じ、楽しむための指針は必要だろう。僕なりにその一端をお伝えしてきたつもりだが、これも自分たちの今後の仕事のひとつだと考えている。

他方、工芸が「道」にまで高まるには、職人さんが技巧のみに陥らないことが大切だとも思う。また偉そうなことを書いてしまい恐縮だが、小売店側が「超絶技巧!」などの売り文句を多用してきたこともあり、最近は手の込んだモノ=良いモノだと思い込む方々も多い。

もちろん良いモノもあるのだが、僕には、モノにいたずらに「作為の傷」を付けることが美しいモノづくりだとは思えない。職人として高度な造形技術を身につけるには、素材や技術と正対する誠実さや勤勉さが重要であり、かつては親方や先輩職人から、技と同時にそれらを支える豊かな人間性をも学ぶ必要があった。

本当の意味で技術を使いこなす熟練の職人さんほど、そうした土台に立ち、「作ろう」とせず「生かそう」とするものだ——僕は多くのベテラン職人さんたちから、異口同音にこのことを教わった。

職人さんにとってそのようなモノづくりは、売れることやお金のことなんて考えていては実現できないものだろう。ただ、そうは言っても誰も皆、お金がないと食べていけないのも事実だ。

だから僕たちKASASAGIは、彼らの手しごとの魅力を発信しつつ、「職人さんたちがものづくりだけに注力できる環境づくり」にも一緒に取り組んでいきたい。それがゆくゆくは工芸を道にまで高め、ひいては多くのお客さんに「自然と共存するうつくしく温かみのあるもの」と過ごす日常の豊かさを知ってもらうことにつながればと考えている。