ぎこちなく非力と評された高校時代
1994年、愛知県碧南市で、日本人の父とブラジル人の母との間にミツロは生まれた。2歳のときに父を亡くして以来、トヨタ自動車の整備工場に勤める母に女手ひとつで育てられた。
小5から中3までテコンドーを習い、夢はK-1選手。蹴り技は自信がついたから、次はパンチを覚えようとボクシング部のある強豪・亨栄高校に進学する。高2の選抜とインターハイでベスト8の実績を残す。
そんなミツロを、国体会場で目をつけたのが当時の中央大学の監督代行・伊藤貞男氏だ。伊藤氏はのちにプロアマで活躍するボクサーを多くスカウトしている。
「国体の会場で高校生が、同じチームの大学生の先輩に向かって右だ、左だと誰よりも大きな声でゲキを飛ばしているのが気になってね。おもしろい子だなと思ってたら、お金がないのか、会場の外にある露店のアイスクリームを物欲しそうに眺めていたんです。声をかけておごってあげたら、以来ミツロは大会のたびに私の姿を探して、挨拶に来るようになりました」
当時の実力はどうだったか?
「その頃は今と違って逆に痩せすぎで、打ち方がぎこちなく非力でしたね。東海ブロック予選で負けることも見てましたから。ただ、技量は光るものがありました。きちんと筋肉をつければ、大学リーグ戦でレギュラーとして戦えると思い、スカウトしました」
伊藤氏は慧眼だった。大学2年次に、バルクアップしたミツロは新設されたライトヘビー級で国体と全日本選手権で優勝する。ミツロの”無双”はここから始まった。
ミツロと同期入部の河口周悟氏(アマチュア元日本ウェルター級8位)は、「ミツロは悪く言うと空気は読まないが、良く言うと周りに流されないタイプ」と話す。
「たとえ先輩相手でも圧倒的な実力と練習量で何も言わせない感じでした。また、チームをまとめるというよりスペシャリストで、主将や副主将というタイプではなかった。ただ、誰よりも練習して結果も出す。だからミツロの言動にはいつも説得力がありましたし、部の雰囲気を引き締める、ある種畏怖の対象というか」(河口氏)
一学年下で、ミツロと学生寮で同室だった岡澤セオン氏(東京五輪、パリ五輪日本代表)はこう話す。
「ミツロ先輩はひと言でいうと“ボス”。べらぼうに強くて、一方で遊びも全力でやる。終電30分前まで練習して、そのあと朝まで後輩達をよく飲みに連れてってくれました。後輩には一円も払わせなかったし、酔い潰れた人がいたら最後まで介抱していました。
今のイメージから誤解されることもあるかもしれませんが、間違いをちゃんと叱ってくれる先輩で、理不尽だったり高圧的だったりしたことは一度もありません。実際は面倒見がよくて愛に溢れた人だったから、みんなからめちゃくちゃ慕われてましたし、今でも僕は感謝しています」(岡澤氏)