ハイアットリージェンシー東京の初期を担当していた

大学卒業後にホテルオークラで敏腕ホテルマンとしてバリバリ働いていた森田社長。結婚式の前金制度やホテルのレディースプランを生み出し、その才覚が認められた森田社長は業界では名のある人物へと成長していった。

「オークラで森田の名前を出せばなんとかなる」とまで言われるほど数々の伝説を作った彼に新たな転機が訪れる。

1979年のこと、小田急電鉄が新宿に高級ホテルを作るということで、生え抜きのメンバーとして、当時のオークラの専務らとともに新ホテルへ移ることになった。

「それが今のハイアットリージェンシー東京です。私は営業部に配属されました。オークラ時代の不良債権回収で学んだ人心掌握術を、どう営業に活かそうかと腕が鳴りましたね。

まずは他のホテルで行なっていた会合や宴会を、ハイアットに乗り換えてもらう…というのがミッションでした。

企業の担当者に連絡しても、彼らは営業を断るセクションで決定権もない。生産性も効率も悪いなと思い、決定権のある社長に直接会ってプレゼンする方法“営業学方程式”を考案しました。

『やはり新しい建物のほうが気分もいいでしょう』『料理は世界最高レベルのシェフが作ります』『豪華なフルーツ盛りや、バニーガールもいかがでしょう』『社長にはVIP対応カードを差し上げます…』などと、相手の気になる事を先回りしてクリアし、断る理由を与えないくらいのセールストークで相手の懐に入り込むのです。

また、社長が外出していていなくても、対応に出てくれた社員さんや秘書さんに丁寧に接する。私の営業は猛烈だけど、誰に対しても礼儀を忘れない。これが大事です」

ハイアットリージェンシー東京時代の森田社長
ハイアットリージェンシー東京時代の森田社長
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ここでもぶっちぎりの森田社長。営業の基準の目標額が300%、500%は当たり前。時には1314%という脅威の数字を叩き出したこともあったという。

そんなモーレツサラリーマンの森田氏にも、現在の姿からでは信じられない悩みがあった。

「一流ホテルの大きな宴会、それも宿泊付きの利益率の高い宴会を根こそぎ持っていってしまったから、かなり恨まれたとは思います…。

その呪いもあったかもしれませんが、30代なかばくらいから、薄毛に悩まされましてね。

頭頂部が薄いものだから、“薄い”コーヒーであるアメリカンコーヒーから取って、あだ名は「ミスターアメリカン」。

なんとかしたいと思いながら、いっぽうで当時はバブル景気の初期で、不動産価格が急上昇していることも気になっていた。これからは、不動産仲介業だと思ったんです。

男ならば、一国一城の主になりたいものだと、40歳を目前にハイアットを退職しました。それから3か月間、毎日10時間の猛勉強をして宅建を取得。現在の会社『ロイヤルシステム』を設立したんです」