政府はすぐに事故現場の特定していた!

──事故現場の特定に時間がかかり、実際に自衛隊の救助活動が行なわれたのは、発生から10時間以上も経ってからです。なぜ大幅に遅れたのでしょうか?

NHKをはじめ多くのメディアが事故現場不明とするなか、1985年8月12日付け信濃毎日新聞号外に「墜落現場は群馬県上野村山中とみられる」と書いてあります。なぜ大手マスコミは特定できなかったんでしょうか? NHKは違う場所を報道するなど二転三転していますが、わざわざNHKに「上野村が事故現場」であると電話をかけた人もいます。現場を伝えているのに、それが一切ニュースで報道されていません。

しかも墜落前の123便を自衛隊のファントム2機が追尾しているのを目撃した人たちもいます。つまり自衛隊は場所を特定できたはずです。

地元の体育館に並べられた棺(ひつぎ)写真/青山さん所有の資料
地元の体育館に並べられた棺(ひつぎ)写真/青山さん所有の資料

警察の冊子「上毛警友」(1985年10号)に現役の自衛隊員がファントムを見たという証言が載っています。また、地元の小学生による「小さな目は見た」(1985年9月)という文集には、生徒とその家族も含めて総勢225名の目撃談が載っています。真っ赤な飛行機が飛んでいたとか、飛行機が追いかけっこをしているとか、たくさんの人たちが見ています。しかし、この時間帯にファントムが発進したという事実は、自衛隊の公式記録には残っていません。

また、事故から10年後の1995年には、当時米空軍第三四五戦術空輸団に所属していた元中尉のマイケル・アントヌッチ氏が墜落の20分後に御巣鷹の尾根に煙が上がるのを確認したと証言しています。彼は沖縄から横田基地にC130輸送機で戻る途中、大島上空で123便の機長の緊急事態発生の無線を傍受しています。

アントヌッチ氏の報告を受けて米軍ヘリが上野村に向かいますが、隊員がまさにロープで降りようとした直前で、なぜか帰還命令が出されています。目の前に犠牲者がいるのにですよ。政府にとって都合の悪い証拠隠滅のために救助が遅れたわけです。

生存者の落合由美さんは、事故直後何人もの乗客が生きていたと証言しています。もっと早く救助活動を行なっていれば、助かった命もたくさんあったはずです。