正統派と奇想派、両方あっての日本美術

 奇想というのはもともと普通名詞で、「奇想天外より落つ」という言い回しがあるように、私が作った言葉でも何でもないんだけど、不思議と流行っちゃったんだよね(笑) 。

思い返せば、1970年刊の『奇想の系譜』のあとがきに、奇想の画家の系譜を室町時代以降にたどると、画僧の雪村周継(生没年不詳)、狩野永徳(1543~1590)、俵屋宗達(生没年不詳)、尾形光琳(1658~1716)も入ってくる、なんていうふうに書いているんですよ。

ある種、奇想のほうが日本美術の主流なんじゃないか、と。その言い方は「奇想」の価値を強調するために気負いすぎた面があるにしても、この本は、それをまたもとへ戻そうとしているんですよね。ややこしいことですが(笑) 。


[上段から、左→右の順に]
雪村周継『蝦蟇鉄拐図』(蝦蟇仙人図) 室町時代・16世紀 対幅 東京国立博物館蔵 画像出典:ColBase
狩野永徳『檜図屛風』(部分) 桃山時代・16世紀 四曲一双 東京国立博物館蔵 画像出典:ColBaseよりトリミングして作成
俵屋宗達『松島図屛風』(左隻・部分) 江戸時代・17世紀 六曲一双 フリーア美術館蔵
尾形光琳『波濤図屛風』(部分) 江戸時代・18世紀 二曲一隻 メトロポリタン美術館蔵

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雪村周継『蝦蟇鉄拐図』(蝦蟇仙人図) 室町時代・16世紀 対幅 東京国立博物館蔵 画像出典:ColBase
狩野永徳『檜図屛風』(部分) 桃山時代・16世紀 四曲一双 東京国立博物館蔵 画像出典:ColBaseよりトリミングして作成
俵屋宗達『松島図屛風』(左隻・部分) 江戸時代・17世紀 六曲一双 フリーア美術館蔵
尾形光琳『波濤図屛風』(部分) 江戸時代・18世紀 二曲一隻 メトロポリタン美術館蔵

山下 先生の『奇想の系譜』が出てから50年ちょっと経って、日本美術全体の捉えられ方は劇的に変わりましたよ。伊藤若冲が再評価されて、『動植綵絵』(皇居三の丸尚蔵館蔵) が国宝指定されたのが、その一番の象徴ですけれども。一方、この本で語られている土佐派や狩野派、円山応挙については、今ではちょっと旗色が悪いですね。

 そういうつもりはなかったんですけどね。50年前には奇想の画家たちはほとんど無名に近くて、それがあまりにもアンバランスだったし、若冲みたいなすごい画家が無視されていていいものか、という気持ちがあったんです。要するに、かつての『奇想の系譜』もバランスをとることが第一でね。すると今度はバランスがとれすぎちゃって、シーソーが反対側に傾いてしまって……(笑) 。

山下 逆転現象が起きてしまった。

 まあ、そうなったら今度はもとに戻すというのか、水平を保たないとね。

山下 正統派と奇想派の両方あるのが、日本美術のおもしろさなんだと思いますよ。

 本当にその通りで、正統派と奇想派は対立しているわけではないんです。先ほど触れた『奇想の系譜』のあとがきでも、奇想については「〈主流〉の中での前衛」という表現をしていましたけど。

山下 日本美術には、ハイブリッドな性格があるんですよ。私の場合、その2つの極を「縄文的」「弥生的」と捉えていて、これは哲学者の谷川徹三がかつて提示した概念ですが、今でも有効だと思っています。

『奇想の系譜』はいってみれば「縄文的」で、その特徴は動的で装飾的で表現過剰。「弥生的」なものは、日本の美として喧伝されてきた「わびさび」のように、静的でシンプルで洗練されたものですね。その両方がハイブリッドにいつの時代にも存在していて、それが日本美術の魅力となっているんじゃないでしょうか。最近では奇想方面に関心が振れすぎているので、バランスをとったほうがいいのは確かだと思います。