「ケン坊は相当お金をかけて手塩にかけて育てられていた」
連携して相談援助にあたっていたのは東京都児童相談センターと台東区子ども家庭支援センター。両者は転出元自治体からの報告を受け、2016年11月末に家庭訪問を始め、翌月には「養育困難」という相談を受理。
その後も電話や家庭訪問を頻繁に繰り返してケアを重ねたが、2019年3月に浅草署からの通告で3人の子ども全員を一時保護した。その半年後までに3人の一時保護は解除され、保育所や託児施設を利用するなどしていたが、2022年9月に保育所から美輝ちゃんに引っかき傷があるなどの連絡があり、見守りと指導を強化。
しかし、以降は保育園を転園し、転園先からも睡眠不足の兆候などが伝えられ、2023年3月13日、救急搬送先の病院で死亡が確認され、都が兄と姉の一時保護を再開したという。
健一容疑者の父、Iさんは千葉県東金市の出身で、若い時分に上京して東京・浅草の地場産業である皮革加工に携わって独立し、「ホソヤ産業」を創業した。そして2012年には隅田川にかかる駒形橋近くに「浅草ホテル旅籠」をオープンして旅館業にも乗り出した。
だが2018年に亡くなり、同社は健一容疑者が継承した。Iさんの兄(87)は取材にこう語った。
「Iにしてみれば、ケン坊(健一)は大切な跡取り息子だったのよ。それこそIは、田舎の東金から一人出ていって、浅草のなめし革の会社に入って独立、起業までしたわけだから、かなりの負けず嫌いだった。自分が作った会社を後世に残したいという思いも人一倍強かったんだろう。
実際にIは『女の子はいらない』というほど男の子を欲していたし、そうして生まれたケン坊には、相当お金をかけて手塩にかけて育てていたからね。自分が敷いたレールに乗せようと、学校もすべて私立に進ませていたくらいだから、ケン坊が大学卒業後、すぐに会社を手伝わなかったときは腹を立てていたよ。
その後、ケン坊はいろんな職を転々としたあとに、一応は家業を継ぐみたいな形にはなったみたいだけど、Iからすれば納得できない部分も大きかったんじゃないかな」