高倉健さんの手紙
8月12日。
「映画館を守ることが出来ず申し訳ございません」
と、ツイッターでメッセージを出しました。
それでも瓦礫の近くにいると、たくさんの方が声をかけてくださいます。あたたかい言葉に、胸が熱くなることもありました。
ふたつのスクリーンで、5本の映画を上映していました。父が89歳の誕生日を迎える8月20日には、創業83年記念のイベントを予定していました。
わたしの仕事は、よろこんでもらえる映画を選ぶこと。居心地のいい場所を提供すること。まちの人たちに足を運んでもらえるように、たくさんのイベントを仕掛けていました。
もう、何もできない。
映画館主として、翼をもがれています。瓦礫を前にして、立ち尽くすしかない……。
わたしは映画館の娘です。幼稚園の頃から、毎日のように、暗闇からスクリーンを見つめていました。大スタアの石原裕次郎や加山雄三に会いたくて、映写室にも通っていました。
十数年前、2代目の父から昭和館を引き継いだとき、経営はまさしく火の車でした。
しばらく赤字が続いているのを、他部門による利益補塡でなんとか補っていたのですが、もう潮時かなと感じました。
何もないところから初代が起業して、2代目が暖簾を守ってきた映画館を、素人の3代目が潰してしまった……。そんな役目を引き受けようと、小倉に帰ってきたのです。
2009年、昭和館の70周年記念に、松本清張さんの生誕100周年のイベントを開催しました。
このとき、有馬稲子さんのアテンド役をつとめました。
有馬さんは、言わずと知れた大女優で、清張原作の『ゼロの焦点』や『波の塔』に出演されています。最初は怖くもあったのですが、わたしは舞台『はなれ瞽女おりん』の大ファンで、芝居の話から打ちとけたのです。
大盛況のイベントのあと、気さくに電話をくれました。行き届いたアテンドに感謝するとおっしゃいます。
「昭和館は、あなたががんばらなきゃだめよ」このはげましで、家業にもどりたいと思ったのですが……。
映画館があった路地に、ひとりで立っています。
ここに人生を捧げてきました。
たくさんの思い出が、瓦礫の山にこめられています。わたしが小倉にもどって、最初に仕掛けたのが、高倉健さんの特集上映でした。
健さんは、福岡県中間市の出身です。最後の出演作になった『あなたへ』のロケが、北九州の門司港であると聞いたので、昭和館でも同時期に、健さんの特集を組みました。
エキストラの一般公募に申し込んで、映画『あなたへ』に出演させてもらいました。門司港のベンチで話している健さんと佐藤浩市さんの目の前を、夫とふたりで意気揚々と歩いたのです。
幸いなことにカットされず、ほんの一瞬だけ、映画に残っています。
この撮影後、高倉健さんにご挨拶したところ、
「自分の映画を上映していただき、ありがとうございます」
と、握手してくれたのです。
昭和館を知ってくださっていた……。
うれしくて、手紙を書きました。握手のお礼と、「昭和館を継続させるかどうか、迷っています」と、正直に打ち明けました。
思いがけず、お返事をいただきました。
健さんからの手紙は、速達で届きました。何か失礼があったのではないかと、おそるおそる封をあけたのですが……。
「熱い想いのこもったお手紙、拝読させていただきました」
と書いてあります。一文字ずつ、かみしめるように読みました。
「映画館閉鎖のニュースは、数年前から頻繁に耳にするようになりました。日々進歩する技術、そして人々の嗜好の変化、どんな業界でもスクラップ・アンド・ビルドは世の常。その活性が進歩を促すのだと思います」
甘い言葉はありません。それでも健さんは、映画館経営を励ましてくれたのです。
「スクラップ」と「ビルド」は、切っても切れない関係にある。たとえ壊れたとしても、そこから生まれてくるものがある……。
この手紙を宝物にして、昭和館に飾っていました。