「タマネギ頭」の黒柳徹子さんをひと言で表すならば…
黒柳さんと僕は年齢的には11歳離れていたが、考え方から思想、ノリに至るまで相性はぴったりだった。だから大先輩にもかかわらず、遠慮なくその髪型を「タマネギ頭」と命名し、ときには「化け猫」呼ばわりもした。
僕にとって『ザ・ベストテン』の司会を黒柳さん以外の人と組むことなど考えられなかったし、もしかしたら黒柳さんも僕と同じ思いだったのではないだろうか。
このキャスティングの妙は、『土曜ワイド』のスタジオで黒柳さんが僕を見かけなければ実現しなかったという意味では、偶然の産物だった。そして、その偶然を運命として、僕は必然のように感じていた。
世間は黒柳徹子さんのことを早口でおしゃべりの“天然キャラ”だと思っているかもしれない。でも僕が彼女をひと言で表すならば「健康な努力家」。まず体がとても丈夫。そして実は地道な努力家だ。そのことはあまり知られていないと思う。
黒柳さんはできる限りの準備をしてから本番に臨む。いつも手のひらに入るほどの小さなカードにびっしりメモを記し、本番中はそれを確認しながら司会をしていた。どんな仕事にも手を抜かずに全力投球し、そのための努力は睡眠を削ってでもする。
『ザ・ベストテン』時代に個人的なおつきあいはなかったが、『ニュースステーション』にゲスト出演して頂いたときから食事をご一緒するようになった。ある日、いつもは話の止まらない彼女が「今日は帰る」とおっしゃる。理由を聞くと、
「あしたクイズ番組の収録があるから、これから7冊くらい本を読まなきゃいけないの」
30年以上レギュラー解答者を務める『世界 ふしぎ発見!』で彼女の正解率が非常に高いのは、解答者全員に事前に知らされたテーマについて、関連する本を片っ端から読んで勉強しているからなのだ。担当ディレクターが図書館に行ったら、黒柳さんに先に借りられていて焦ったこともあったそうだ。
『ザ・ベストテン』を見ていた人たちが覚えているのは、大人数が座れるスタジオのソファかもしれない。司会の黒柳さんと僕が歌手のみなさんをお客さまとして迎え、「百恵さんって1日に4食も召し上がるんですって」などとトークを繰り広げた。番組の最後には毎回、「ハイ、ポーズ」と言って集合写真を撮った。
応接セットは「家庭的なくつろぎ」という番組のメッセージを象徴する演出だった。黒柳さんは「『ザ・ベストテン』の時代は、1台のテレビを家族全員で見ていたいちばん最後の約10年だったのかもしれません」と語っている。
なるほど、そうかもしれない。番組そのものは1989年まで11年と8カ月間続くことになるが、僕が司会を辞めた85年の時点で、若い世代を中心にミュージックシーンは変化の兆しを見せ、すでに「誰もが知っているヒット曲」の時代はほころびを見せていた。
TBSの音楽ディレクターも知らない歌い手が次から次に登場し、CDをはじめとするメディアの進展とともに、音楽は急速に多様化、細分化していく。それはランキングの意味が失われていく過程でもあった。
文/久米宏
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