生まれたときからギャルだった

――”シブジョ”を開校する前は、ギャル雑誌『egg』の編集長を務めていた赤荻さんですが、そもそもご自身はいつギャルに目覚めた?

物心ついたときからオシャレが好きで、幼稚園のころから誰よりも目立ちたいと思ってました。たぶん生まれたときからギャルだったんですよ(笑)。

小学生のころから『ギャルサー』というドラマや『GALS』という雑誌は欠かさずにチェックしてましたし、小3のころから「将来は渋谷で生きていこう」と決めていました。それが自分のなかで当たり前だと思っていたんです。

――ちなみに、ご自身が一番ギャルに触れたと思うのはやはり?

もちろん『egg』ですね(笑)。毎月かならず買っていましたし、隅から隅まで読みふけってました。当時は、まさか自分が編集長になるとは夢にも思ってませんでしたが、それだぐらい私にとって『egg』は人生のバイブルでした。

赤荻瞳さん
赤荻瞳さん
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――2007年ごろの「姫ギャル」を最後にギャル文化は衰退していき、今の20代はギャル文化に触れることが少なかったとされています。学生時代に趣味を共有できる人はいましたか。

中学のころ、わたしのいつメン(いつも一緒にいるメンツ)がみんなギャルで、地元では「ギャル軍団」と呼ばれていました(笑)。土日にお出かけするときは、埼玉県民らしく大宮止まりでしたが(笑)。

――ギャルといえば、少し不良っぽいイメージがありますが、正直、中学時代はやんちゃをされていましたか?

確かに軍団のなかには学校をサボる子もいましたが、人に迷惑をかけずに仲間を大事にするというのがギャルのマインドとしてあったので、その子も犯罪とかはしてなかったです。

隣町には荒れてる中学校もあって、ヤンキーが窓ガラスを割ったりしてたんですけど、「そういうのはちょっとキモイな」と冷めた目で見てましたね(笑)。私たちのようなギャルは、オシャレできて楽しければなんでもいいって感じだったので。

校長を務めるシブジョの生徒たちと
校長を務めるシブジョの生徒たちと

――赤荻さんは21歳の若さで『egg」の編集長に就任しました。しかし当時は、乃木坂46のような清楚系が人気を集めていた時代で、ギャルを訴求させていくのは難しかったのでは?

渋谷からギャルが少なくなっているのは感じていましたが、そもそも自分をみせる場所がストリート(街)からSNSに変わっただけなので、ギャル文化が終わったとは思っていませんでした。

「ストリートにいないならYouTubeをやればいいや」という気持ちでいましたし、SNSならどこでもモデルさんから写真提供してもらえるなと思って、紙ではなくWEBでギャルの情報発信をスタートしました。