イビツァ・オシムが眠る墓
サラエボにはバレという名の大きな集団墓地がある。ここでは、故人の信仰した宗教ごとに墓の場所が明確に区分けされている。イスラム、東方正教、カトリック、アドベンティスト(プロテスタント)、ユダヤ教、そして無宗教というジャンルに至るまで、それぞれのテリトリーは厳格に分かれ、異教徒同士が混ざり合うことがない。
民族間で凄惨な殺し合いをさせられたボスニア紛争が終結して28年が経過するが、戦争で命を落とした者の遺族が出逢って、無用な衝突が起きないような措置がなされているのだ。
だが、かつてはこうではなかった。行政の方針ではあるが、混在していた時代のほうが数倍好きだったとムスリムの古い友人は言う。
「多文化都市サラエボの破壊状況は、思っていた以上に悲惨だ。戦前は、この街の住民を宗教で分けるなどということは考えもしなかった。何を信仰していようが、おかまいなし。皆が同じものを食べ、同じ飲み屋に行っていた。それが今では生活圏の間にくっきりと境界線が引かれている」(クルト・ベルクマン)
紛争を鎮めるために戦後体制としてもたらされた「デイトン合意」は、ムスリム、セルビア(正教)、クロアチア(カトリック)の三民族の代表が輪番制で政治を収める制度で、居住地も政体も分けられた(ちなみにこの三民族は宗教が違うだけで同じ言語を使う)。
確かに接触を避けることで、平和にはなったが、分断はさらに進んだ。サッカーの世界も同様で、ボスニアサッカー協会は3つの組織に分かれることで機能が滞り、民族ごとの汚職が蔓延した。一国家一協会を原則とするFIFA(世界サッカー連盟)はこれを問題視して、一時は除名処分を下した。ボスニアからサッカーが消えたのだ。
この窮地を救ったのが、イビツァ・オシムだった。
脳梗塞を患い、左手の利かない不自由な体を操って三民族の政治家たちのもとへ出向き、説得を重ねた。「オシムの言うことならば…」と固陋な民族主義者のリーダーたちが耳を傾け、ついにはサッカー協会は統一されてFIFAに復帰。呼応するようにボスニア代表チームはW杯ブラジル大会の予選を勝ち進み、やがて夢舞台への初出場を決めた。オシムはベルクマンの言う境界線を乗り越えたのだ。
かつて「サラエボは脆い平和にすがっている国の裏庭にできた日陰のようなもの」と自虐的に語っていたオシムは、故郷を再び陽の当たる場所へ押し上げたといえる。
あなたは何民族なのか?と問われれば、「私はサラエボっ子だ」と答え、無神論者を公言していたオシムは、バレでもそうだった。どの宗教地区からも離れた場所で、孤高を保つように眠っていた。
花を買って手向けた。
訃報を聞いて、1年以上が経ってようやく来られたけれど、「何しに来た」と言われた気がした。生前、オシムは、「死は人生の一部なのだから、悲しみや驚きの感情はそぐわない」と盛んに言っていた。今、思えば、自分が逝った後も静かに見送れという意味だったのだろう。
それでもジェレズニチャルやシュトゥム・グラーツ、そしてジェフ千葉…、指導したチームの関係者やサポーターたちからの墓参は引きも切らず、この日もみずみずしい草花が幾多も供えられていた。静けさの中でしばし両手を合わせていると、ああ、本当にもうシュワーボはいないんだなと、えもしれぬ淋しさがこみあげてきて全身を覆った。気を取り直すようにして、サッカー協会に向かった。