労働組合の役員だった高畑勲と宮崎駿
かくして東映動画から人材が流出した。一般の業界では最大手の正社員が給料も一番高く、小さな企業や下請け、フリーランスになると収入が減るものだが、アニメーションの世界では最大手の東映動画にいるよりもフリーランスになったほうが収入が上がる現象が起きていた。
大塚康生には手塚治虫が自らアプローチした。大塚は後に『太陽の王子ホルスの大冒険』や『ルパン三世』の作画監督として知られる。大塚は島根県で生まれ、8歳の年に山口県に転居し、山口県立山口工業学校土木科を卒業した。山口県庁の総務部統計課に就職したが、政治漫画家志望で、山口新聞に掲載されたこともある。
漫画家になるには東京へ行かなければと、厚生省の採用試験を受けて合格し、1952年に上京した。厚生省では麻薬取締官事務所に配属されたが、麻薬取締官になったのではなく事務の仕事をしていた。働きながら絵の勉強をし、近藤日出造や清水崑が結成していた新漫画派集団の事務所に行き、弟子にしてくれと頼んだが相手にされなかった。
大塚のアニメーションとの出会いは、山口時代にソ連の『せむしのこうま』を見たときで、こういう仕事をしたいと漠然と思った。上京してから見たのが『やぶにらみの暴君』だった。中村和子、高畑勲、宮崎駿らもこのフランスのアニメーション映画に感銘を受けている。ディズニーに心酔する手塚系のアニメーターとは、原点からして異なるのだ。大塚は図書館へ行き、アニメーションの技法の本を読んで独学していた。
1956年6月27日、大塚は「東京タイムズ」芸能欄で「漫画映画『白蛇伝』東映で制作決定」の記事を見て、新宿区若松町時代の日本動画社を訪れた。東映に買収されると決まっていたが、正式にはまだ日動だった時期だ。
山本早苗、藪下泰司が応対してくれ、大塚が25歳を超えていたので、「いまから学ぶのは苦労が多いから止めたほうがいい」とも助言してくれた。それでも試験として動画を描かせると、予想以上にうまかったので、ときどき練習に来るようにと言ってくれた。
12月に東映動画としての採用試験があり、大塚は日動の推薦ということで、臨時採用された。初任給は6500円で厚生省時代の3分の1になった。長編第1作の『白蛇伝』から動画スタッフになり、制作中に第2原画、第1原画と昇格した。第3作『西遊記』でも原画のひとりだった。一方、1962年には労働組合の書記長になった。労組の役員としてともに闘うのが、高畑勲や宮崎駿だ。
手塚治虫は大塚を虫プロにスカウトしようと、自宅に花束を持って頼みに行った。しかし大塚は断った。組合の書記長をしていたこともあるが、虫プロが標榜する「作家集団」という考え方になじめないのもその理由だった。
坂本たちが知り合いに声をかけて勧誘するだけでは間に合わないので、虫プロは3月に、新聞に求人広告を出した。300名近くが応募し、7名が採用された。
電通の屈辱 1963年のアトム・ショック
週刊少年ジャンプが専属制の必要を感じた日
文/中川右介
写真/shutterstock