二度の暴行事件
ザ・タイガースの活動期間はわずか4年。しかしジュリーは解散後も音楽活動に精進した。解散直後には萩原健一とのツインボーカルバンド、PYGに参加、同年にはソロデビューも果たす。
1973年にはソロ曲「危険なふたり」が大ヒットし、第4回日本歌謡大賞を受賞。変わらず端正な容貌と派手なファッションスタイルも時代の最先端と受け止められ、女性ファンが熱狂するなど一世を風靡した。
そんななか、囁かれはじめたのがジュリーの熱愛である。お相手としてマスコミがマークしていたのが当時大人気だった双子デュオ、ザ・ピーナッツの姉、伊藤エミ(本名・日出代)さんだった。
「もともとはジュリーがザ・ピーナッツのファンだったことがきっかけですが、1969年にジュリーがザ・ピーナッツに楽曲提供したことでエミと交際が始まったと言われています。エミはジュリーより7歳年上、当時は人気絶頂のアイドル同士ですから、今以上に熱愛、ましてや結婚はハードルが高かったのです。
そのため秘密裏の交際期間は6年にも及びました。そして1975年、ザ・ピーナッツは解散。エミは芸能界から引退を表明、その直後ジュリーと結婚したのです」(当時を知る芸能記者)
だが結婚後のジュリーは立て続けに暴力事件を起こす。
1975年12月、東京駅の新幹線ホームで、出迎えのファンの行動を注意した駅職員に頭突きをして書類送検され、翌年には、新幹線の車内で乗客から「いもジュリー」と言われたことに激昂し、暴行事件も起こしている。こちらは示談により不起訴処分となったものの、これらを受けて、ジュリーは約1ヶ月の間、謹慎することになる。
やがて長男が誕生したものの、1983年頃から不穏な情報がさかんにマスコミに取り上げられるようになる。それが女優・田中裕子との不倫だった。ふたりの不倫関係の経緯について『週刊明星』(1987年1月29日号)はこう記している。
「昭和57年の正月映画『男はつらいよ・花も嵐も寅次郎』で共演して以来、ふたりの交際が始まり、以後、59年の『カポネ大いに泣く』でふたたび共演した時には、周囲におかまいなくお熱いシーンを披露した。
ジュリーは裕子に歌のレッスンをつけるようになり、その後はステージをプロデュースするまでに発展した。スナックやコンサート会場で、ふたりの仲睦まじい様子が何度も目撃され、マスコミの話題にもなった。ジュリー自身、「(裕子とのことは)結構図々しくやっています。そっとしていただけたら……」
と、開き直ったともみえる交際宣言を行ってもいた。