衝撃の朝
「番号!!」
刑務官の太い声が廊下に響いた。時刻は朝7時前、受刑者への点呼が始まったのだ。刑務所の朝は早い。
まず訪れたのは、主に高齢受刑者が収容されている建物。並んでいるのは、受刑者の生活空間となる部屋だ。4人が一緒に生活している共同室。それに1人用の単独室。
見たところどの部屋にも、一様に上下緑色の服を着た、70代から80代ぐらいの年老いた受刑者が正座をしている。刑務官はそれぞれの部屋の前で立ち止まり、受刑者の番号と人数をテンポよく確認していった。
そのなかで私は、気になる光景を目の当たりにした。
80歳ぐらいだろうか。単独室に収容されていたその高齢受刑者は、川口(仮名)と呼ばれていた。川口は、点呼の際に正座をすることなく、部屋の中に設置されたトイレの前に立ち、排泄していた。そのままの姿勢で自分の番号を答えた。刑務官は特段とがめる様子もなく、他の受刑者と同様、流れるように番号と名前を確認していった。私は川口のことが気になり、しばらく見ていたが、明らかに不自然な様子だった。
点呼が終わると、配食係の受刑者によって、それぞれの部屋に人数分の朝食が配膳されていった。麦飯が入っている弁当容器の蓋には、「かゆ」と書かれたシールが貼られているのが目に入る。咀嚼する力が衰えた、受刑者向けの食事だ。
川口にも、朝食が配膳されてきた。だが、当の本人はまったく手をつける気配をみせない。しまいには、布団に潜り込み、そのまま眠ろうとしてしまった。その様子に気づいた刑務官が、すぐに部屋の前までやって来て、川口に声をかけた。
「起きなさい。起きなさい。朝だ」
「はい」
「はいじゃなくて、起きなさい」
「はい……」
とても会話が成立しているようには見えない。そこで別の刑務官が、我が子をさとすように優しく声をかけた。
「朝だよ。起きようか?」
「はい」
反射的に「はい」と返事はするものの、なかなか次の動作に移ることができない。しびれを切らしたのか、刑務官数人が部屋に入り込み、掛け布団を回収して廊下に出てきた。すると、その掛け布団が放つ異臭にあたりは包まれた。失禁だった。これには私も思わず息を止めた。
しかし再び部屋を見てみると、驚いたことに川口は、今度は分厚い敷き布団の下に潜り込んで眠りにつこうとしていた。
どうなっているのか……。
あまりの出来事に、呆気にとられてしまった。
「すみません、あの方ですが……。大丈夫ですか?」
私の呼びかけで、再び部屋の中をのぞき込んだ刑務官が不意にみせた、疲れ切った表情と、とっさについたため息は忘れられない。そこからは、やるせなさや困惑が入り交じった複雑な感情が読み取れた。
川口は80代後半で、無期懲役の刑で服役していたが、数年ほど前から認知症と診断されているという。
「受刑者は、罪と向き合うために刑務所にいる」
刑務所を訪れる前まで、私は素朴にそう考えていた。確かに罪に向き合えている受刑者がいる一方、そうでない受刑者もいるだろう。しかし、高齢化に伴い認知機能が衰えた受刑者は、日常生活はおろか、言葉のキャッチボールさえできていないのが現実のようだ。罪に向き合う以前に、自らの罪をきちんと認識できているのか怪しく思えてくる。
早朝から後頭部を殴られたような衝撃を受けた私は、自らの考えがあまりにも単純だったと思い知らされた。