常の差料(さしりょう)とした実休光忠

本能寺の変で信長が最期まで腰に帯びていたと見られているのが、実休光忠と薬研藤四郎(やげんとうしろう)の大小だ。愛刀家の信長は多くの名刀を蒐集(しゅうしゅう)したが、なかでも好んだのが備前長船(びぜんおさふな)派の祖・光忠の刀だ。光忠の後継者には子の長光、孫の景光(長光の子)、曾孫の兼光(景光の子)がおり、いずれも名工として知られている。

若き日に派手な装いを好んだ信長は、豪壮華麗(ごうそうかれい)を特色とした光忠の刀剣が気に入り、二十五振(一説に三十二振とも)も所持していた。実休光忠はそのなかの一振だが、もとは号にもあるように三好実休(みよしじっきゅ)こと三好義賢(よしたか)が所持していた(実休の前に六角氏(ろっかくし)の重臣・三雲定持(みくもさだもち)が所持していたという説もある)。

実休光忠ではないが、長船(おさふね)光忠が打ったとされる一振り。江戸時代に鑑定され、「光忠」の銘が入れられている。太刀の身幅が広く豪壮な形状で、刃紋も華やか
実休光忠ではないが、長船(おさふね)光忠が打ったとされる一振り。江戸時代に鑑定され、「光忠」の銘が入れられている。太刀の身幅が広く豪壮な形状で、刃紋も華やか
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義賢は時の権力者・三好長慶(みよしながよし)の弟で、兄を助けて各地に転戦した。しかし、永禄三(1560)年、久米田(くめだ)(大阪府岸和田市)で畠山高政(はたけやまたかまさ)と戦い討ち死にした(久米田の戦い)。その後、経緯は不明だが、実休光忠は信長の手に渡った。

あるとき、信長は刀剣の目利き巧者(こうしゃ)といわれた堺の豪商・木津屋(きづや)に所蔵していた二十五振の光忠の刀を見せ、「このなかに実休の刀があれば選び出してみよ」と言った。すると木津屋は一振ずつ鑑定していくと、そのうちの一振を取って「これが三好殿の御刀でござる」と言った。

信長が「どうして実休の刀とわかったのか?何かしるしがあるのか?」と問うと、木津屋は久米田の戦いについて語り出した。やがて、話は実休が戦場で床机(しょうぎ)に腰かけ団扇(うちわ)を振って指示していたときの場面に及んだ。そこで実休は敵兵の根来左京(ねごろさきょう)に槍で突かれたが、腰から光忠の刀を抜いて応戦。しかし、ついに突き伏せられ討死にしたことを語った。

そして、このとき実休が左京の脛当(すねあて)を切り払ったため刀の切っ先が少し欠けたことも木津屋は語り、その傷跡こそが実休光忠である証だと答えたのである。合点がいった信長は木津屋の知見に感心し、以来、実休光忠を差料として常にそばに置いていたという。

こうして信長は実休光忠とともに本能寺の変の炎のなかで運命をともにした。焼け跡から信長の遺骸(いがい)は見つからず、その後、信長生存説さえ語られるようになった。一方、実休光忠も焼け身になったが、こちらは信長の後継者・羽柴(豊臣)秀吉の手に渡った。

秀吉はこの名刀を焼き直し、愛刀の一振とした。秀吉の死後、実休光忠は秀吉が蒐集した膨大な刀剣とともに遺児の秀頼(ひでより)に引き継がれ、大坂城に保管された。ところが、大坂の役(夏の陣)で大坂城は落城。秀頼が自刃の際に放った火によって、実休光忠は再び焼け身となった。大坂落城後、家康の手に渡ったが、その後の行方はわかっていない。


文/刀剣ファン編集部
織田信長像(模本) 出典:国立博物館所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-9168?locale=ja
刀/出典:国立博物館所蔵品統合検索システム
https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/F-159?locale=ja

 『大般若長光×長篠の合戦 1575年』 はこちらから
 『長曽祢虎徹×池田屋事件 1864年』 はこちらから

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刀剣ファン編集部
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168ページ
ISBN: 978-4635823661
主な内容
1章 古代~室町時代
神話時代の日本刀/蝦夷征伐(坂上田村麻呂の刀)/一条天皇と三条宗近/平将門の乱/源平合戦(薄緑丸)/承久の乱と後鳥羽上皇/蒙古襲来と相州伝の勃興/ほか

2章 戦国時代~江戸時代
川中島合戦/桶狭間の戦い/姉川合戦/中国攻め/長篠合戦/本能寺の変/小田原征伐/朝鮮の役/関ケ原合戦/徳川幕府誕生/明暦の大火/赤穂事件/享保の改 革/池田屋事件/寺田屋事件
ほか
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