「ジョーカーという真摯な絶望を汚す奴は許さない」とツイート

五野井 文学や映画などの怖さは、善かれ悪しかれ、人に影響を与えてしまうところです。それは魅力であり魔力です。山上被告はこうツイートしています。「ジョーカーという真摯な絶望を汚す奴は許さない」。
 
池田 すごく高揚した言葉ですよね。
 
五野井 アーサーはいわゆる「非モテ」、インセル(女性蔑視主義者)かどうかが当時議論になりましたが、山上被告は、アーサーはインセルではないと言います。女性だけを憎んでいるのではなく、社会全体を憎んでいるんだと。だからアーサーが「『インセルか否か』を過剰に重視するのは正にアーサーを狂気に追いやったエゴそのもの」だと彼は述べます。

女性が自分を振り返ってくれないことはもちろん憎いだろうけれど、それも社会全体の憎しみのなかのひとつにすぎなくて、一般のインセルがこじらせる「女性にモテないからイヤだ」というのではないのだと。すべて憎い社会が既にあって、そのなかの一部に女性というものがあるにすぎないのだと。

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山上徹也被告(写真/共同通信社)

池田 山上被告のツイートを読むと、いま五野井さんが説明してくれたことを何とかわかってもらおうとして、しかしわかってもらえない、伝わらないもどかしさに貫かれていると思います。
 
五野井 そうですね。「安倍晋三を殺す」なんてことは最初にはまったく書かれていません。むしろ、「なぜ自分がいまこんな悲惨な立場にいるのか」とか、「かつては女性と付き合えたのに、なぜいまは付き合えていないのか」とか──まさにツイートで「親に騙され、学歴と全財産を失い、恋人にも捨てられ、彷徨い続け幾星霜、それでも親を殺せば喜ぶ奴らがいるから殺せない、それがオレですよ」と言っています。
 
池田 そこの解釈は私と五野井さんとではかなりの差がありますね。私は、「恋愛」と彼が呼んでいるものは、実際はそんなふうに呼べるものではなかったのではないかと思っています。もっと淡いもの、あるいは彼のほうからの思い込みが強かったり、アクシデントのようなものだったのではないかと思ってしまうんです。

「恋人」という言い方は古風ですよね。つまり、「恋愛」には性的な関係も含むと思うのですが、そこまでいった「恋人」ではないのではないでしょうか。旧統一教会は純潔教育がすごくって、教祖様が決めてくれた人と一緒になるまで人を好きになってはいけない、そのように言う母親に反発したとしても、しかしそれが山上被告にとって何らかの足かせになって、恋愛スキルに遅れをとったということがあったのではないかと思うのですが。