長きにわたってパリを見守り続けた歴史的建造物に起こったまさかの出来事が、詳細なリサーチを経て映画に

ノートルダム大聖堂を守った消防隊員たちの決死の救出作戦。ジャン=ジャック・アノー監督『ノートルダム 炎の大聖堂』インタビュー_1
Photo :Mickael Lefevre
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特撮映画におけるカタルシスは、自分たちの良く知る街や世界的に有名なランドマークが巨大生物に難なく壊されてしまうありえなさにあります。よほどのことがない限り、半永久的にそこにある建造物であるからこそ、破壊される架空の物語を楽しめるわけで、これが本当になくなってしまうことは考えられない。しかしながら、ジャン=ジャック・アノー監督の『ノートルダム 炎の大聖堂』は2019年4月15日、794年の歴史を持つこの大聖堂がまさに火災に遭うという、信じがたい出来事を詳細なリサーチを得て、劇映画となりました。

未だ火災の直接の原因を司法は調査中として明かしていませんが、この映画では、この日からスタートしていた修復工事の作業員たちに禁煙が厳守されていなかったこと、スプリンクラーなど消火機能が古く、役に立たなかったこと、当日、警備員が初日出勤だったこと、他にも様々な要素が重なり合って、被害が広がったと考えられています。

アノー監督は過去に『薔薇の名前』、『セブン・イヤーズ・イン・チベット』と、宗教と人を題材にした作品を作っていますが、今回は数々の困難に直面しながら、ノートルダム大聖堂と、所蔵していた歴史的な宝物を、死傷者を一人も出さず、救出に尽力した消防士たちの「あの日、何があったのか」を詳細にひも解いて描いています。本物のそっくりのセットを作り、実際に火を使って撮影したといいますが、今作で描きたかったことをお聞きしました。

ノートルダム大聖堂を守った消防隊員たちの決死の救出作戦。ジャン=ジャック・アノー監督『ノートルダム 炎の大聖堂』インタビュー_2
Photo :David Koskas

監督・ジャン=ジャック・アノー (Jean-Jacques Annaud)
1943年、フランス、パリ生まれ。2つのフランス映画学校を卒業後、ソルボンヌ大学で中世美術史と中世史を学び、1960年代後半から多くのコマーシャルを制作。俳優として活躍した後、デビュー作品『ブラック・アンド・ホワイト・イン・カラー』(1976)は第49回アカデミー賞外国語映画賞(現:国際長編映画賞)を受賞。原始人を徹底しリアリズムで描いた異色作品『人類創生』(1981)が世界的ヒット。ショーン・コネリー主演の『薔薇の名前』(1986)の世界的な大ヒットによって監督としての地位を確立する。主な監督作品に、ジェーン・マーチ主演の『愛人 ラマン』(1992)、ブラッド・ピット主演の『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(1997)、ジュード・ロウ主演の『スターリングラード』(2001)、ウィリアム・フォン主演の『神なるオオカミ』(2015)など。セザール賞を4回受賞。

世界トップクラスにあるパリの消防団を阻んだのは、 個人主義のパリジャンでした。パリはパリ、フランスはフランスなんです

ノートルダム大聖堂を守った消防隊員たちの決死の救出作戦。ジャン=ジャック・アノー監督『ノートルダム 炎の大聖堂』インタビュー_3
アノー監督とガーゴイル。劇中、ガーゴイルが象徴的に使われている。Photo :Guy Ferrandis

──映画の中で、ノートルダム大聖堂の屋根に飾られていたガーゴイルが、炎に包まれて、火の涙を流しているように見えるなど、とても象徴的に使われていると感じました。ガーゴイルは本来、雨どいの役目を担っていたそうですが、同時に、悪霊や災厄払いの精霊としてパリの人々を見守ってきた存在です。実際には、修復工事のために火事の4日前に大聖堂のガーゴイルは取り外されていたそうですが、パリの街の守り神であるガーゴイルと大聖堂が、実はきちんと守られる体制になかったことが映画で描かれ、ショックを受けてしまいました。

「今、あなたとモニター越しに話をしている僕のアパルトマンは、ノートルダム大聖堂から500メートルも離れていない場所にあるんです。でも、あの火災が起きた日、僕はパリから離れていて、テレビもない場所にいたので、ラジオの実況をずっと聞いていました。もちろんよく知っている場所だったので、ビジュアルがなくても、どういう状況になっていたのか容易に想像できました。パリに来た旅行客が最初に訪ねる場所といえば、まあ、ノートルダム大聖堂だったでしょう。パリの中心にあって、長い間聖なる場所であり、建築物としても長い歴史と価値があった。

でもね、やっぱり、フランスはフランス、パリはパリなんです。パリジャンは個人主義と言われるけど、あの日、多くの人が自分の祖母に火災の映像を送りたいからと携帯電話で自撮りして、消防車の進行を妨げたり、止めたりしました。それも自分たちの自由なんだから、別にいいじゃないかとね。そのために、多くの消防車が渋滞に巻き込まれ、なかなか現地にたどり着けなかった。

パリの消防団というのは世界でもトップクラスの技術があるといわれているんです。でも、そんな集団においても、個人主義のパリジャンのメンタリティに合わせて行動をしなくてはいけないんだ。だから、この映画で描かれていることは、全部、本当に起きたこと。僕は何が起きたのか、時系列で追った詳細な資料を読みましたけど、サスペンスみたいだなと思いました。

残念なことに、ノートルダム大聖堂とガーゴイルを守るための機能が万全ではなかった。フランスというのは、とても文化的な国ではあるんだけれど、いろんなことが機能していないんです。そういう国であっても、ノートルダム大聖堂が崩壊の危機に面して、数々の歴史的な宝物が失われる可能性が高まったとき、消防士たちの判断と実行力で素晴らしい救出へとアクセスできた。誰かが大けがを負ったり、命を落とすリスクがあったのに、誰もそうならなかった。結果、多くの美術品、工芸品、宝物が守られ、大聖堂は未だ、建っているのです」

初の現場がノートルダム大聖堂の消火活動だった新人隊員

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初現場がいきなりノートルダム大聖堂の消化活動となった新人二人。Photo :David Koskas

──映画で描かれていますけど、最初に大聖堂にたどり着いたパリ消防団の人たちの中には、この日が初現場という若い新人の消防士が二人いたわけですけど、モデルとなった男性消防士と女性消防士には話を聞かれたのですか?

「もちろん。実際の消火活動に加わった多くの消防士に会って、話を聞きました。中でも特に感銘を受けたのが、その若い二人だったんです。そもそもパリ消防団の女性消防士は全体の4パーセントしかいないそうなんです。それが初出勤の日、初めて本物の火災を見た現場がノートルダム大聖堂だったなんて、すごい確率ですよね。若い二人はまだ19歳で、それなのに、現場では自分の人生を大聖堂を守るために捧げようと思ったといいます。

フランスではこの10年ほど、以前にもまして、自己中心的になってきています。対して消防士という仕事は、過酷な仕事なのに、給与がそんなにいいとは言えないんです。なのに、毎日、誰かを助けている。その姿に感銘を受けたし、誠実さにも心が打たれました。ふたりは、ノートルダムの鎮火作業の後、家に戻って、そのことをことさら、語ることをしなかったそうです。他の消防士の方も同じで、自分たちが何をしたかを、外で喧伝する必要がないと。私は日々、トレーニングを重ねた彼らが、大聖堂の崩壊を回避させたことにリスペクトしています」

上司たちは、若い隊員の勇気が強すぎて心配が増した

ノートルダム大聖堂を守った消防隊員たちの決死の救出作戦。ジャン=ジャック・アノー監督『ノートルダム 炎の大聖堂』インタビュー_5
先発隊が着いた時、すでに屋根の火は大きく燃え広がり、消火活動は困難な状況からスタート。Photo :Mickael Lefevre

──映画を見て怖くてしょうがなかったのは、屋根に使われている鉛が炎で溶けて、消防士たちの頭の上に降り注ぐ場面でした。狭い階段を重い装備で上がらなくてはいけないし、行った先が行き止まりだったりする。それをまさに、観客に体感させるような映像になっているわけですが、監督が最も恐ろしいと感じたのはどこの場面だったでしょうか?

「最初の消火チームが、火元発生の屋上に行くわけですが、片方が猛烈な勢いで燃えていて、1200度もの熱さを放っている。で、もう片方は大聖堂の壁が絶壁のようになっていて、要するに逃げ場がない。もし、辿ってきた階段に火が回ると、自分たちの唯一の退避先が閉ざされてしまい、待つのは死のみになってしまう。それでも、彼らは消火活動を止めなかった。上司の方々は、若い隊員の勇気が強すぎて、逆に心配になったそうです」

ノートルダム大聖堂を守った消防隊員たちの決死の救出作戦。ジャン=ジャック・アノー監督『ノートルダム 炎の大聖堂』インタビュー_6
Photo:Mickael Lefevre

──撮影には本物の火を使ったと聞きましたが。

「もちろん、ノートルダム大聖堂に火をつけることはできませんので、そっくりのセットを精密に再現しました。撮影現場においても、役者にとって、僕にとっても、安全策は最重要事項で、対策は念を入れて講じましたけど、それでも火を使うので怖かった。特に、その最初の先行隊が狭い石の螺旋階段を駆け上がる場面では、僕の両方の方が壁についてしまうほど幅が狭くて、役者たちはボンベや防火服で50キロほどの重さの機材を担いでいたわけです。

ヘルメットをすると、外部の音がよく聞こえない、その上で、体をあちこちにぶつけてしまう。非常に恐ろしい状況ですけど、だからこそ僕は、この映画を作りたいと思いました。これは映画なのか、現実なのか、その境がわからなくて、どきどきわくわくさせられる。フィクションとノンフィクションを組み合わせたドラマを作ることが出来ると思いました」