「証拠」とされたズボンは袴田さんの
ウエストより30センチも小さく…

1966年6月30日未明、静岡市(旧清水市)の味噌製造会社専務一家4人が刃物で惨殺され、家屋が放火されるという事件があった。午前2時ごろ、東海道線の線路を挟んだ向かいにあった、味噌工場社員寮2階で寝ていた袴田さんは専務宅の火災の消火に駆け付けた。
焼け跡からは一家4人の遺体が発見された。

警察は元プロボクサーだった袴田さんを犯人と断定、重要参考人として7月4日から任意の取り調べを始める。実家の家宅捜索(この時、彼を犯人に仕立てるために証拠を捏造したのではないか)するなどした後の8月18日、袴田さんを強盗殺人等の容疑で逮捕した。警察署内取調室では昼夜を問わず、すさまじい取り調べ(拷問)が行われた。

10日間の勾留では自白を得られず、勾留は更新された。しかし、袴田さんは、ボクサーとして培った体力と気力で拷問に耐え続けた。警察は勾留期間が満了になる20日目(9月6日)に検事を投入、自白調書を取って起訴したのだった。

11月15日、第1回公判。袴田さんの犯行時の着衣は「血染めのパジャマ」との警察発表を受けたマスコミはそのまま記事にしていたが、パジャマには、目につく血痕はなかった。

翌1967年8月31日、大量の血痕が付着した5点の衣類が味噌タンクの中から発見された。それらは味噌漬けになっていたにもかかわらず血痕の赤みが確認されるものだった。検察はここで、これら衣類は、袴田さんが隠したものだとして、犯行時の着衣をパジャマからこの衣類に変更した。

しかし、法廷で試着させたところ、上衣、ズボン共に小さく、ズボンにあっては、腰部が入らず、見た感じ30 センチ前後ウエストサイズが小さなものだった。当時の袴田さんは収監されて瘦せていたにもかかわらずだ。この時、袴田さんは無罪判決を確信しただろう。見たこともない衣類であり、はけないズボンだったのだから。

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犯行現場近くの味噌タンクから見つかったシャツとズボン

ところが、裁判所はその5点の衣類を袴田さんが犯行時に着用していたものと認定し、1968年9月11日、死刑判決を下した。高裁、最高裁でも判決はくつがえらず、1980年12月に死刑判決が確定し、袴田さんは死刑確定者として東京拘置所に拘置された。

いつ来るかわからない死刑台への呼び出しの恐怖に怯える日々を送り、徐々に精神を病んでいったのだろう。姉の面会にも出て来なくなった。