ジャッジをしない

小林 「ミスター・プレスコットが死んだ日」では知人の男性が亡くなって葬式に駆けつけた「あたし」が、知らずに故人の最後に使ったグラスで水をごくごく飲みますよね。すると、そこの娘さんが、それは「パパが最後に飲んだグラス」って言う。「あたし」が急いで謝ると、息子さんが「いつか誰かが飲まなきゃいけないんだからさ」ってフォローします。私はその場面がすごく好きです。しかもグラスを使っちゃった直後、「あたし」の頭のなかに故人が最後の一杯を飲んで顔が真っ青になる姿が浮かんでくるのも。
 死ってそんなに遠いところじゃなくて、グラスに口をつけるだけですぐそこにあるものなのだとあの文章を読んで思いました。例えば、ふだん何気なく東京を歩いていても、ああ、この道にも空襲で亡くなった人の遺体が転がっていたんだ、とふと気づくことがある。よく考えてみると、死って実は身の回りにある。自分の日常と人の死がすっと接続される表現で、とても印象深い場面です。しかも、プラスの実体験らしいですね。

柴田 そうなんです。実体験だからうまく書ける、というふうに決めちゃいけないと思うけど、あそこの実感はちょっと特別ですね。わあごめんなさい、ってあわてて謝って、「いつか誰かが……」って慰められてまたあっさりホッとする。自分に自信がないから、やたら針が左右に振れるんですね。個人的にはそこにすごく共感する。自分が正しいと思うから、人間は独善的になってしまうわけですから。

小林 確かに、自分に自信がないと断定できないですもんね。そうした自信のなさが、かえって真摯に感じられる。

柴田 自分は正解を持っているわけじゃないってところから始める。ホールデンは正解を持っている。彼は感受性の部分では、これはphonyでこれは本物、みたいな判断をしますよね。その判断を周りの人と共有できないところが彼の痛さで、プラスの小説の女性たちのしんどさとは別です。

小林 それは、さっきお話しした、女性が選ばれる側の存在として社会に規定されがち、ということにも繋がっているのでしょうか。

柴田 まったくそうですね。

小林 普通だったら、あそこでグラスのシーンなんてわざわざ入れたりしないと思うんだけど、それをあえて書き込む。すごく挑戦的だし、そこにこそ真意があるってプラスは思ってるんだろうなというのが伝わってきます。

柴田 小説を書く人ならではの意見ですね。僕は、ただユーモアとリアリティがあるな、ぐらいにしか考えてなかった。

小林 私はプラスを読んでいて、あ、ここまで書くんだと思うことがけっこうあるんです。あえて過剰な書き方をしているというか。例えば、『ベル・ジャー』で物語の最初の方に、ドリーンがバーで知り合ったレニーという男性の家に遊びに行き二人がじゃれ合っているのを見せつけられる。真夜中、酔いつぶれたドリーンがホテルの部屋の前にやってきて、廊下で吐いて倒れてしまうシーンがあります。彼女を抱えていたエスターはドリーンをわざと吐瀉物とともに廊下に放置して、朝起きたら黒い染みだけがあった。えっ、ここまで書く? と。けれどさすがにドアに鍵だけはかけずにいる。こんな描写に誠実さを感じて、あぁ、すごく好きだなぁって思います。
 小説を書いていると、作者である自分の醜さがさらけだされすぎないようにどうしても気配りや手加減をしてしまうという罠がある。だけど、プラスは、それが真意であるなら、自分の心の醜さも手加減なしにちゃんと書く。本当にかっこいい。

柴田 作中の人物が友達にきついこと言ったりもしますしね。しかも、それを反省したりしない。超自我がないから正解もないというか。ここではこう振る舞うのが正しい、みたいな視点がないんです。だから、あいつのあれは間違っている、なんてジャッジもしない。

小林 そう! ジャッジがないんです。それがすごい。

柴田 生理的な好悪だけ。

小林 その生理的な好悪を誤魔化さずに書いているのがいいですね。例えば、「十五ドルのイーグル」で、最後にタトゥー職人の奥さんが出てくる場面で、これまでのことがひっくり返されるんだけど、彼の奥さんの嫌な態度や、それに対する語り手の感じ方もぜんぶ素直に書いている。こうきたか!って(笑)。あれもまた、ジャッジをしているわけではない書き方。やはりジャッジをしないという姿勢の奥底には、常に選ばれる立場でしか生きられない苦しさが潜んでいるんでしょうね。

柴田 そのとおりですね。ジャッジできるのに黙っているんじゃなくて、そもそもできない。

小林 ジャッジされることしか経験してこなかったということですね。先ほど柴田さんがおっしゃった出版社に原稿をリジェクトされる話も、そうだと思います。幼い子どもが二人いるのに原稿料をもらえなかったら生活できなくなるから、そういうジャッジが生きることと死ぬことに直結してくる。身を削りながら書くような作風の作家だから、きっとリジェクトされることは自分を否定されているようにも思えただろうし、余計に辛い。そんなギリギリのところにいるのに、自分ではジャッジできないし選べない。

柴田 「ジョニー・パニックと夢聖書」なんかも、今ではプラス短篇の代表作とされていますけど、実は最初に出版社に掲載を断られています。

小林 あの作品に関しては、何の前知識もなく短篇集を最初から読んでいくと、「ブロッサム・ストリートの娘たち」と物語上のコネクションがあったりして、びっくりしました。

柴田 「ブロッサム・ストリートの娘たち」で「あたし」のボスだったミス・テイラーが出てきたりしてね。話が繋がると同時に、見方を変えれば同じ人間も違ったように見えるかもしれませんよと言っているようにも思える。

小林 プラスは自分のなかにもう一つの世界があったんじゃないかと思います。それが現実とは別の居場所になっていたかもしれない。でも、そうした別の世界があってもなお彼女が生き延びられなかったということが、私にはすごく悔しい。別の居場所があって小説を書いていても耐えられないほどの痛みを彼女に与え続けた何ものかに、私は憤りを覚えます。

柴田 ヴァージニア・ウルフも同じでしょうか。

小林 そうなんです。私の好きな作家たちが最後に自殺してしまうということがすごくショックで。小説を読んでいると自分の指針になってくれるような先輩を見つけたような気持ちになるのに。彼女たちが自殺しないでだらだらとでもいいから生き延びて年を取った先に書いた作品が、物語が読みたかった、と私は切実に思います。

これからのシルヴィア・プラスたちに

小林 今回、短篇集に収録されなかった作品で柴田さんが翻訳された「ザ・シャドー」という小説を読ませていただきました。これがまた素晴らしい。

柴田 やっぱり入れればよかったかな(笑)。「五十九番目の熊」か「ザ・シャドー」かで迷って、前者を入れたんですね。

小林 プラスって現実を物語に昇華する、その仕方で驚かせてくれますよね。さっきの「ミスター・プレスコットが死んだ日」でのグラスで水を飲む場面、「五十九番目の熊」では彼女の夫だったテッド・ヒューズを模した人物が痛い目を見たり。『ベル・ジャー』ももちろんそうだけど、現実に起きていることを世界と接続しながら物語に仕立てている。「ザ・シャドー」もまさにそんな作品で、何もわからず読んでいると、だんだん父親がドイツ人であるという個人的なことと体制の問題に接続されていって、さらにそれがもっと大きなものに繋がるラストが見事。「夜が世界の半分、あたしたちがいる方の半分をかき消し、もっと先まで消していくとともに、あたしの心のなかの影も長くなっていった」。名文ですね。

柴田 よかったです。それと僕は、末尾のお母さんの一言が悲しいなと思います。悲しいけど、いい。お母さんは綺麗事を並べれば娘が納得するとは思っていないし、だからと言って、世の中ってそういうもんだからへこたれるなって根性論を説くわけでもない。「そういうふうに考える人もいるわ」って一言で終わるところに、突き放すわけでもなく受け入れるわけでもない、さっきのジャッジをしないという姿勢が表われていていいなと思います。

小林 「ザ・シャドー」じゃなくて、「五十九番目の熊」の方が柴田さんとしては収録したかったのですか?

柴田 いやー、迷うところですけど、「五十九番目の熊」は夫との実体験に基づいた作品で、その結末が体験とあまりに違うのが衝撃で、その衝撃に引きずられて(笑)。まああと「ザ・シャドー」は、一人称の主人公に語らせる上でプラスが子どもになりきってないところがあるのはちょっとマイナス。
 ちなみに「五十九番目の熊」は、夫のテッド・ヒューズがあんまり評価していないんですよね。「ブロッサム・ストリートの娘たち」でせっかくあそこまで行けたのに、この作品でまた平凡な次元に戻ってしまっていると言ってます。自分に相当する人物がひどい目に遭うことが、判断に影響しているかどうかはわかりませんが。

小林 ひどい! 上から目線だし。すみません怒りしかわいてきません。ていうか、私は「五十九番目の熊」好きです。

柴田 それはやっぱり、シルヴィア・プラスの味方をしたくなりますよね。

小林 彼が「これはよく書けてた」、「これはダメだ」ってジャッジをする側に立って、決して自分が脅かされることはないだろうという立ち位置にいることもまた……。

柴田 彼女の死後にヒューズが編んだ短篇集も、「うまくいっている作品」と「その他の作品」というふうに章分けしてあって、Aマイナスをつけた先生みたいだなあって思うよね。写真だけ見ると、売れっ子詩人の夫と作家兼詩人として前途有望な妻の美男美女夫婦に見えるんですけど。

小林 今でこそ、グルーミングなどの概念も広がって、ジェンダーにおける権力関係が問題としてはっきり見えてくるようになりましたけど、昔はすごく見えにくかったですよね。私自身の子どもの頃を思い返しても、権力のある年を取った男の人と若い女の子の組み合わせはロマンチックなもののように思っていたし憧れさえ抱いていたけれど、今の視点から見ると、あれってもしかしてホラーだったのかもしれない、と思います。私が今現在から過去のプラスを振り返って見ると、いやいや、そんな辛いこと頑張らないで、酷い夫からはとにかく逃げて! という気持ちになりますけど、そうした世界の渦中で生きていると見えないこともあるし、逃げ場もない。もしかしたら、今の私にもまだ見えていなくて、未来にわかるような苦しさもあるのだろうと思います。
 以前、『光の子ども』を描くために、二十世紀前半の科学者の歴史を調べているなかで女性に関する記述が非常に少なかったことに驚いたのを覚えています。こんなにも書き残されていないんだとショックでした。やっぱり歴史に残る有名な偉い科学者は男性がほとんどなんですね。マリー・キュリーみたいな人ってすごくレアで。それすらもたまたま結婚した夫がいい人で、たまたま本人も頑張り屋さんで、みたいな「たまたま」でしかない。一方で、科学者を目指したけど結婚した夫ばかりが研究に打ち込み自分は子育てに追われて病んでいくとか、業績を横取りされて踏み躙られるとか、そういうケースはたくさんありました。歴史に描かれずに消えてしまった女の人生ってなんなんだろうって、すごくもやもやしました。
 そういう声をどうやったら聞けるんだろうというのは、私がずっと考えていることです。プラスの向こうにはたくさんのプラスがいて、彼女たちは第九王国さえ持てずに死んでいった。そう思いながら読むと、ますます物語の重みと凄みを感じます。

柴田 最初に『ベル・ジャー』を通して伝わってくるのは生理的な感覚だという話をしました。渦中にいる本人は、そうした痛みがなんなのか自分ではわからないんだと思います。もしそれを自分で完璧に整理した言葉で、私の内面にあるのはこういうことですって抽象的な次元で提示するとしたら、やっぱり伝わってこないでしょう。そういう感覚的な事柄を、よくわからないまま物語を通して伝えるというのが小説の効用なんじゃないでしょうか。

小林 プラスの作品を読んで、その息苦しさに気づくという体験は、私にとってはとても救いになりました。誰かが息苦しいと嘆いている声を聞いて、あぁ、自分もそういえば息苦しかったんだ、と、初めてわかることもある。それがないと、息苦しいことにさえ気づかず日常生活を送りながら、ただ追いつめられていってしまう。短い作品一つを読んだだけでもハッと目を開かせてくれるものがありますね。

柴田 プラスを読んで、小説を書く上で影響を受けた部分はありますか?

小林 創作上の技法に関することっていうよりも、例えば、こんなふうに思っていることを素直に書いていいんだと知ることができたのがとても大きいですね。小説を読んで物語の作り方や表現に感銘を受けることはたくさんあります。でも、自分の人生の指針になるような、自分にとっての切実な小説って私にとってはそんなに多いわけじゃなくて。『アンネの日記』、ウルフの『ダロウェイ夫人』、それからプラスの『ベル・ジャー』。こうした作品には、その書き方を通して、生き方について多くのことを教えてもらいました。こういうふうに世界を見て、生きていてもいいんだ、と思えるきっかけになりました。
 ウルフの「意識の流れ」も、私が見たり感じたりしていた世界を、そのまま物語にしてもいいんだよ、と示してくれた。物語や社会というものは、きっちり直線的で論理的なだけでなくてもいい。プラスには、あたりまえのように自分自身も選びジャッジする側の目線になって読んだり書いたりしていたことを反省するきっかけを与えてもらえました。自分が見たり感じたりしている世界をそのままに勇気を持って書いていいっていうことを教えられた。プラスやウルフとの出会いは、そういう意味でとても大切なものです。彼女たちの小説を読んで以降、自分の心のなかにあるものについてはどんなに醜いことも、複雑なことでも、誠実に書いていこうと意識するようになりました。

柴田 具体的な生き方というより、正直になっていいんだっていうことですね。

小林 はい。正直に感じたことを正直に書く、そういった真摯な書き方を学びました。柴田さんが今日、絶対的な正しさがないのがプラスの特徴だっておっしゃいましたけど、私がプラスに共鳴していたのは、そこなんだと改めて思いました。彼女の不安だったり、これが正しいって言えない、そんな曖昧さのなかにある優しさだったりを私は求めてシルヴィア・プラスを読んでいたんだって、今回の短篇集を読んで改めて気づかされました。発見されたばかりの小説を、こんなに早く届けてくださって、本当にありがとうございます。

柴田 いやいや、こちらこそ、しっかり読み込んでくださってありがとうございました。これからもプラスが読まれる世の中であってほしいですね。

(2022・5・31 神保町にて)

「すばる」2022年8月号転載

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著者:シルヴィア・プラス
訳者:柴田 元幸
定価:2,310円(10%税込)

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