スコアブックと蛍光ペン

大矢は試合中、常にスコアブックを付けながら解説している。それも一球一球を記録するだけでなく、机の上に蛍光ペンを何本か並べて置き、球種やボールの特徴などをわかりやすく色分けし、ポイントになる場面は赤ペンで詳細に状況を書き込む。「観て、書いて、しゃべって。めちゃめちゃ忙しいんですよ」と苦笑する。捕手出身ゆえに身に付いた性分かもしれない。

ゲーム内容をしっかり分析し、丁寧に説明すること。ネタの披露はあくまで付録と考えている。名古屋で解説を始めた時からずっとそうだった。それを横でずっと見てきた森中アナは、その真摯な仕事への取り組みを信頼し、推薦してくれたのだろう。

自らの高校時代は、高校野球の光と影をともに経験した3年間だった。希望に燃えて名門・東邦に入学したが、1年生の6月、部内で暴力事件が起こる。連帯責任の時代。一年間の出場停止処分となった。

甲子園の望みを絶たれた先輩たちは何人も退部していった。「奈落の底に突き落とされた気分だった」と振り返る。落ち込む部員たちを励ますように、柘植が当時監督を務めていた新日鐵名古屋(のちの東海REX)の選手を連れて何度もグラウンドを訪れ、練習を見せてくれた。この時の恩義があるから、柘植に言われたら二つ返事で解説者を引き受けた。

3年夏の最後のチャンスに甲子園出場を果たす。そして1年生エース〝バンビ〟こと坂本佳一投手とのバッテリーで勝ち進み、あれよあれよという間に決勝進出。坂本は空前の大フィーバーを巻き起こし、試合以外では宿舎から一歩も出られなくなった。

 “高校野球界の増田明美”と呼ばれたきっかけ _2
甲子園準優勝をはたした東邦高校時代。一番右が大矢さん
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宿舎で相部屋だった大矢は、外出時に坂本のために菓子やジュースを買ってきてやったという。「遠足のような、本当に楽しい時間でしたね」と、今も昨日のことのように思い出す。

決勝戦でサヨナラ本塁打を打たれ準優勝。優勝した東洋大姫路のスタンドで応援していた1年生部員の中に、のちに履正社高校の監督となった岡田龍生(現・東洋大姫路監督)がいた。岡田率いる履正社が初の日本一を勝ち取った2019年夏の決勝、履正社-星稜戦は、大矢にとっても解説者として初めての決勝戦だった。

「そうやって人の縁で生きてきた。18歳で甲子園に行って良い思いをさせてもらって、こうして解説をやるようになって、もう45年です。幸せな野球人生ですよ。甲子園からたくさんの力をもらいました。応援の雰囲気や選手たちのプレーを見ていると、違う世界にいるような気持ちになります。夢の世界で高校野球に関わっているんです」

大矢は言う。最後の解説となった決勝戦の日、閉会式が終わると、最後にアナウンサーから、球児たちへのメッセージを求められた。

「高校野球は後々の人生に生かされることが、たくさん詰まっています。世の中、社会に出ると、思い通りにいかないこと、つらいことがたくさんあります。そんなとき、高校野球で学んだこと、そして野球を通して鍛えられた強い心があれば、きっと乗り越えられると思います」

そんな自らの野球人生を投影させたかのようなメッセージは、多くの視聴者の感動を呼んだ。放送終了後、大矢はもう一度、放送席から甲子園のグラウンドをしっかり目に焼き付けて、球場を後にした。


取材・文/矢崎良一 写真/AFLO

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