「もう存続できないかもしれない……」
時計の針を戻す――。藤井氏自身が「龍角散」を継ぐことは、藤井氏にとって当然の道ではなかった。幼いころから音楽を学び、パリへ留学。フルート奏者として活動した後、社会経験を積むために小林製薬や三菱化成工業で働いてきた。
父の病を機に「龍角散」へ入社したものの、会社の経営状態を知るほど、引き継ぐことに迷いが生じたという。
社長就任前後の「龍角散」は、売上高約40億円に対し、借入金も約40億円。新製品は育たず、社内には危機感もない。
藤井氏は、「会社を続けること自体が正しいのか」とまで思い詰めたという。医薬品を扱う以上、無理に事業を続けて品質や供給に問題が生じれば、使う人に迷惑をかけてしまう。「歴史がある」というだけでは、会社を残す理由にならない。
そんな時、妻から「ご先祖様への恩返しはしなくてよいのか」と問いかけられ、藤井氏は、その言葉で会社との関係を見つめ直した。彼は振り返る。
「音楽を学び、外の企業で働くことができた背景には、『龍角散』という家業があったんです。引き継ぐと決めたのは、先祖代々の形をそのまま残すためではありません。会社が、ひとの役に立つ仕事を続けられるようにするためです」
当時は、大企業を模倣した事業、新市場参入などを進めるも軌道に乗らず、ついには大量リストラ案まで浮上していた。
藤井氏は経営会議で「社員を大量に辞めさせるだけで、この会社に何が残るのか」と異議を唱えたという。そして、父親の余命を踏まえ、自分に一度経営を任せてほしいと申し出た。
「沈没寸前の泥船」の舵を取る。そんな悲壮感の中で社長としての船出を決意した。
1995年6月、藤井氏は社長に就任した。しかしそのわずか半年後、大事件が起こる。医療用医薬品の変色が判明し、自主回収を決断。ニュースでも大々的に報じられる事態になってしまった。
「ただでさえ、経営危機にある会社が、もう存続できないかもしれない……」
藤井氏が父親にそう詫びると、父親は「お前の経営判断の結果だろう」。
危機から逃げず、自分の判断として責任を負う。藤井氏の社長人生は、華々しい就任式ではなく、いきなり最大級の試練から始まった。
自主回収の原因を究明し、対策品の供給も軌道に乗る。取引先へ謝罪して回る中、意外にも新規取引の話が舞い込んできた。藤井氏は振り返る。
「自主回収したからこそ、むしろ真面目な会社だ、と評価する医師もいたんです」
この危機を経て、藤井氏は「龍角散」という会社や商品を、誰がどう評価しているのかを改めて知る必要性を感じるようになった。
社内の常識や経営陣の思い込みではなく、「実際に使っている人に聞く」ことこそ再建の出発点ではないか――藤井氏の意識は消費者調査へ向かっていく。













