ロックへの落胆から生まれたもの
少し昔話につきあってほしい。
ロフトプラスワンは、当時ロフトでの居場所を見失っていた私にとっての、「新しい遊び場」だった。
1984年、私はそれまでの13年間で5店舗を展開してきたロフトグループを解散し、世界放浪の旅に出た。働きに働きづめ、無理やり店舗を拡大し、そのための莫大な借金を払い終えた時、何かがぷつんと切れた。「何のために、これほど働くのか?」。全てを投げたくなったのだ。
ブレイクすると、ロフトを卒業するミュージシャン。採算の取れない小さな箱から、ホールや日本武道館などの大会場へ。そこには「ライブハウスで育った新人を大手プロダクションとレコード会社が獲得する」という商業の論理があった。
その一方で、ビジネスのレールに乗らない破壊的なパンクムーブメントも終わった。暗澹たる思いと、ロックへの絶望感。事業の拡大と反比例して、私は会社の経営に情熱を持てなくなっていった。
1960〜1970年代の「政治の季節」を体験していた私は、緊張と興奮の日々を渇望していた。つかの間の繁栄を謳歌する日本を離れ、激動の世界に身を投じたい。40歳、バツイチの独身。平和な日本で死にたくない。俺は何をしているのだ?
そうして私は、1984年に「ロフト解散」を宣言した。
「新宿ロフトだけはやらせてくれ」との当時の副社長・佐藤文の提案を聞き入れ、下北沢などの4店舗は当時の店長にのれん分けして、新宿ロフトだけを手元に残した。ロフトを解散した私は、旧ソ連と東欧諸国を皮切りに、世界放浪の旅に出た。
8年後の1992年、西新宿の再開発により、新宿ロフトが立ち退きを迫られていると聞いて、私は帰国する。
現場に復帰して、私ひどく落胆した。「これでは仲良しクラブの歌声喫茶ではないか?」。日本のロックは変わり果てていた。
意味のない歌詞と軽薄なノリ。アイドルのコンサートで人生応援歌のように手を揺らす観客。どのバンドもこなれた演奏をしているが、かつてロックが持っていたカウンターカルチャー、反権力としての思想性はなく、突っ張った演奏者も観客もいない。それでも店は繁盛している。
立ち退き反対運動の末、店舗は歌舞伎町に移転することで結着したが、浦島太郎状態の私はロフトでの居場所を失っていく。当時48歳。10代、20代の若者相手に、8年の空白を埋めるには歳を取りすぎていた。できることなら、50代でもう一花咲かせたい。そう願っていた時に閃いたのが、トークライブハウスという新機軸だった。
追憶のロフトプラスワン
あれから約30年。「トークのためのライブハウス」というコンセプトは、当初誰からも理解されなかったが、ロフトプラスワンは日本のサブカルチャーを産み育てるゆりかごとなっていく。
岡田斗司夫、唐沢俊一、眠田直らの「オタクアミーゴス」、映画監督の若松孝二、ベストセラー『突破者』の宮崎学、新右翼・一水会代表の鈴木邦男、「日本のレーニン」と呼ばれた元・赤軍派議長の塩見孝也等々、有名無名の出演者が右も左も入り乱れ、観客もそこに加わり、一方通行の大手メディアが成し得ない、新しい言論の場が生まれた。
野村克也・沙知代夫妻や堀江貴文といった時の人も出演し、私の思いつきから始まったロフトプラスワンは、サブカルの聖地となる。
今ではトークライブハウスはロフト系列だけでも6店舗。日本各地に同様のコンセプトの空間は次々と生まれ、カフェや書店などでもトークの催し物を行うのは普通のことになった。そしてネット配信。テーマと2人以上の語り手がいれば、トークライブはどこでもできる。
ただ悲しいかな、ロフトに居場所を見出せなくなったように、有名になるにつれて予定調和的になっていったロフトプラスワンにも、私は魅力を感じなくなっていった。
ヘイトスピーチなどの人権問題、原発などの社会問題について、どれだけ熱く討論しても、社会は結局変わらない。むしろ悪くなる一方ではないか。そんな諦念もあったかもしれない。
あはは、昔の話はどうしても暗くなってしまうな。
隠居の身となった私だが、来週には世界初の「超高級老人ホーム」からのネット配信が待っている。聞き手には美しい女性作家が来る。私にとってはひさしぶりのトークライブだ。
何が起こるかはわからないが、きっと何かが起こるに違いない!
文/平野悠












